森木杏

ぼちぼち、書いています。

森木杏

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最近の記事

青のコーヒー

ふと時計を見ると、夜の十一時を少し回ったところだった。いつもちょうどこの時間に集中力が途切れる。納品は明後日の正午だが、今晩中に目処をつけておきたい。 財布とスマホをポケットに入れて、パーカーを羽織って部屋を出た。 エレベーターで一階まで下り、大通りを歩いていつものコンビニへ向かう。昼間の雨はとうにあがっていて、外の空気は少しひんやりしていた。 自動ドアが開いて店内に入ると、いらっしゃいませという複数の声が響いた。 明日の朝に食べるパンとサラダを手に取り、レジに向かう。 「

    • 名前の中に「木」がいくつあるか

      柚木麻子先生の本が好きでよく読んでいるのだが、『私にふさわしいホテル』の中に、ペンネームに「木」がつくと売れるとか、「木」はたくさんあればあるほどよいというようなことが書いてあった。それを読んで以来、いつか小説を書くようなことがあればペンネームには「木」をたくさん入れようと考えていた。 そこで、「森木杏」である。 「木」が5個も入っている。柚木麻子先生の4個を上回る。これでどうだと言わんばかりのペンネームである。もっとも、「木」がつけばつくほどよいという話は柚木麻子先生の本

      • シンガポールで、毎朝泳ぐ

        トーストとコーヒーだけの簡単な朝食を用意して夫を送り出した後、コンドのプールで45分だけ毎朝泳ぐ。45分だと少し物足りないが、この物足りなさが毎日続く理由のような気がしている。 疲れていても、少しくらい風邪気味でも、小雨が降っていても泳ぐ。泳がないとその日一日落ち着かない。朝起きて歯を磨くのと同じで、毎朝泳ぐのはもう日課になっている。さすがに大雨は避けるが、シンガポールでは一日中雨が降ることはほとんどない。雨が止んだタイミングを見計らって泳げばいいだけだ。 シンガポールに四季

        • 懐古スイッチ

          いつもは気をつけているのに、今日に限ってうっかり懐古スイッチを押してしまった。 ・肌寒い雨 ・週末の午後 ・生理前 ・仕事もプライベートも最近うまく回っていない 条件が整いすぎていた。 いつもならスイッチに気づかないふりがうまくできるのに。 スイッチを押してしまったからには、自然に解除されるまでとことん向き合った方が得策だ。ベッドに横になり、イヤホンを耳に突っ込む。はっぴいえんどの「風をあつめて」をYoutubeで検索して聴いた。懐古タイムにうってつけの曲。薄暗い天井を見上

        青のコーヒー

          センスがあるかないか

          センスがあるかないか。 世の中のたいていのことはこのひとことで片づけることができる。 ・野球のセンスがあるかないか。 ・ビジネスのセンスがあるかないか。 ・料理のセンスがあるかないか。 ・語学のセンスがあるかないか。 こういったよく聞く言い回しから、「男を見抜くセンス」「花を育てるセンス」「旅を楽しむセンス」といったニッチなものまで応用が利く。「ファッションセンス」などの表現は昔から使われてきたが、最近はこのように幅広く便利に使われているように思う。 ところで「センス」とは

          センスがあるかないか

          【短編小説】私の名前は

          自分の名前がとにかく嫌いだった。 なぜこんなふざけた名前を子供につけようなんて思ったんだろう。幼稚園の時に目ざとい男子に指摘されて初めて気づいた。それまでは自分の名前について疑問に思うことなどなかった。 母を問い詰めたことも何度もある。しかし母は私の訴えなどまったく取り合わず、「楽しい名前でしょう」と言ってケラケラ笑うだけだった。 小学1年生の頃に出された「おうちの人に自分の名前の由来を聞いてきましょう」という宿題は、結局提出しなかったし、親に由来を聞きもしなかった。 早く結

          【短編小説】私の名前は

          マスクの下で

          コロナで長らく休みだった学校が再開した。 分散登校が始まり、出席番号奇数組は月水金、偶数組は火木土に登校することになった。 お情けで入れてもらっているクラスLINEを見る限り、みんな自粛生活にはうんざりしていて学校の再開を待ちわびているようだった。 自粛生活は僕にとっては天国だった。 学校に行かなくても誰にも文句を言われない。一緒に遊ぶ友達がいなくて気後れすることもない。 夜遅くまで起きていても母親は特に文句を言わなかった。こんな状況かだから仕方がないと大目に見てくれていた

          マスクの下で

          二階の塾

          その塾は本屋の二階にあった。 小学校にほど近く、文具が売り上げの多くを占めるような本屋だったと思う。 店のわきから裏手に回り、外階段を上ると塾がある。八畳ほどの部屋に大きなテーブルがあり、八人ほどが座れるようになっていた。 一階の本屋にはいつも不愛想なおじさんがいて、二階の塾はその奥さんがやっていた。数学と英語を小学五年生、六年生と中学生に教えていた。 一学年一クラスのみ。当時、街にはフランチャイズの塾などはなかったから、それなりに人気があった。 私だけ本屋の近くの小学校とは

          二階の塾

          【短編小説】彼女について

          彼女が英語塾を始めると聞いた時、すぐにはその意味を理解できなかった。普段の会話の中で、あっさりとそして唐突に言い出したから。 明日美容院の予約を入れてるのとか、来週免許の更新に行ってくるわとか、そのくらいのトーンで「私、英語塾を始めようと思うの」と彼女は言った。「ふーん、そうなんだ」と適当に相槌を打ってスルーしてしまうところだった。驚きと同時に、本当にできるのかといった疑問が大きく湧き上がった。 「会社はどうするの?」「場所はどうするの?」「誰向けの塾なの?」「生徒は集まるの

          【短編小説】彼女について

          三丁目歯科

          給湯室に置いてあった誰かのヨーロッパ土産のクッキーをつまんだら歯の詰め物が取れてしまった。仕事はエンドレスでやってもやっても終わらないし、部の連中は使えないやつばっかり。よほどイライラしていたのか、普段はお土産の甘い物なんて口にしないのに、なぜかその日に限って手を伸ばしてしまった。ただでさえ忙しいのに詰め物が取れるなんて。怒りをぶつける先もなく、さらにイラついた。 見かねた後輩が会社の近くの歯科医院を紹介してくれた。電話してみると、すぐに診てくれるという。仕事を抜け出して後輩

          三丁目歯科

          埼京線からの景色

          埼玉に越してきて、もう二十年以上になる。埼玉で過ごした年月は、生まれ育った関東の端っこの小さな町に住んでいたそれをいつのまにか上回った。しかし一向に埼玉には愛着を持てないでいる。交通も買い物も便利だし、程よく都会で暮らしにくくはない。草でも食ってろ的なマイナスイメージもなくはないが、その辺のところは自虐的に面白く見ている。 週の半分くらいは仕事で都内に行っていた。電車に乗る時間は長いので、なるべく座って帰って帰るようにしていた(グリーン車を利用したり、各停に乗ったりして)。

          埼京線からの景色