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蘇州夜曲

心の中に、帰る場所をもっているだろうか。

たとえ身体は戻れなくとも、記憶の中に帰る場所がある人は、どこかにしなやかな強さを持っている様な気がする。

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中国・瀋陽市は遼寧省の省都で、東北地方の大都市である。
瀋陽へは夏場に幾度か訪ねたことはあるが、仕事の関係上、秋から冬にかけての滞在が多かった。

成田から大連周水子国際空港に着陸すると、エージェントの小李(シャウリー)が待っていた。
車に乗り込み、まだ新しさが残る高速道路を走っていると、道の両サイドには、どこまで行っても同じ高さの低い植林が連続する。
冬場の木々は寒々しく、全ての葉を失っていた。
道すがら野焼きをしているのか、不定期に車内に木が燻された香りが漂ってくると、思い出したように外の景色を眺めた。

途中、小さな農村にある工場に向かう

小李が雇う中年ドライバーはいつも、昔ここに高速道路が無かった頃の話をするので、迷って道を尋ねたある農家が適当なこと言ったせいで、大変なことになった、というオチまで覚えてしまった。
大連から4時間ほど北東へ走ると、目的地である瀋陽郊外に到着した。

1月上旬。
旧正月前の街と人は、いつもとは違う熱気と忙しさで溢れていた。
工場に頼んでいた仕事も大詰めで、広い場内を歩きながらチェックをしていると、通路でシン(欣)が声を掛けてきた。

彼女は工場内での役職は無いが陽気な性格で、ワーカー達にも人気があった。
普段は総経理(社長)やQC(品質管理)など日常的に会話をする人を除けば、場内のワーカーがこちらに声を掛けてくることは稀だが、彼女の様に人懐っこい性格の人もいる。

シンは日本語を話せないが、普段から堂々と中国語で話しかけてくる。
僕は中国語を話せないので、そんな時、少しだけ面倒くさそうに小李が翻訳をしてくれるのだが、僕はワーカー達と同様、いつも笑顔で話しかけてくる彼女が好きだった。

工場隣の事務所へ戻ると、入口に立っていた総経理があまり浮かない顔をしているので尋ねると、旧正月までに目標の生産が終わるかどうか、少し危ういとのことだった。
彼は自分で約束したからにはなんとかすると言い、翌朝から稼働時間を延ばして調整する、ということだったので、ありがたいのと同時に、少し申し訳ない気持ちにもなった。

翌日からの生産は予想以上に順調に進み、危惧していたよりも数日を余して仕事を終えられそうなスケジュールになった。
凍えるような寒さの中で朝早くから仕事をしていたこともあり、皆が疲れていたが、言い表せない達成感のようなものもあった。

工場は瀋陽の中心部より少し離れた郊外の田舎だが、総経理は今夜市内まで出て、鍋を食べようと言った。
彼とは取引が始まった早い段階から、お互いに酒が得意でないことを話していたので、連日酒宴などが行われることは無く、静かな夜を過ごしていた。

午後の打ち合わせを終えるころに事務所の窓を見ると、夕陽の頭だけが微かに地平線に残っていて、手前には大荷物を積んだバイクの影だけが見えた。

工場からはシンを含むワーカー達も作業を終え、場内から続々と出てきた。
相変わらずいつもの笑顔で話しかけてくる彼女と通路で話していると、総経理は、シンも夕飯に来いと誘った。
彼女は当初驚いた様子で拒んでいたが、後ろにいるワーカー達は彼女の背中を押し、騒ぎながら促すと、普段から頬の赤いシンの顔が、真っ赤になった。

総経理の車に乗り市内に移動するまでの間、彼女は大人しかった。
工場で気さくに話しかけているイメージとは対照的に、少し緊張している感じがしたが、それだけ日常においてあまり経験が無いことなのだろう。

市内のレストランに着くと、個室は馴染みのある円卓になっていて、多人数で鍋をつついた。
東北地方では円卓に並ぶ何種類かの炒め物をよく口にするが、見た目はどれも同じなのに、味が全く違うことにいつもながら感心する。

総経理は少し申し訳無さそうに最初の一杯だけビールを酌み交わしたが、のこりの時間は、各々で自由にやった。
総経理は仕事の話があらかた終わると、席に着いてから一言も話さないシンに、故郷はどこかと尋ねた。
彼女は小さな声で、蘇州だと答えた。

蘇州がどんな場所なのか気になったので尋ねると、古くから水郷の街だということ。瀋陽と同じく長い歴史のある街だと言うことを聞いた。
硬かったシンの表情は故郷の話をしていくにつれ、徐々に笑顔が戻ってきた。

総経理が、古くから日本と中国でも知られている蘇州の歌があるのを知っているかと僕に尋ねてきたのだけど、恥ずかしながらその歌を知らなかった。
円卓の正面にいた総務の中年男性が軽く口ずさんで教えてくれたのだけど、周りのスタッフが急に笑い出したので、おそらくかなり音程がズレていたのだろう。
総経理もそれを見て大笑いし、せっかくだからその歌を聞きに、皆でカラオケに行こうと言った。

夕飯を食べたレストランからすぐのところに、カラオケ屋があった。
静かだった若手のスタッフ達は、こぞって流行りの歌を歌い出した。日本でもあるように、マイクを持つと皆が元気になる姿を見ているのが楽しかった。

僕はしばらく悩んだ挙句「雪の華」を歌ったのだけど、一人の若いスタッフが、これは中国の歌だと言った。
小李は笑いながらこれは日本の歌だと説明していたが、中国語の歌詞もあったので、とても有名なのだろう。

シンの番になり、大きなテレビ画面に「蘇州夜曲」という曲名が映し出された。

君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の歌
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか 柳がすすり泣く

花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも

髪にか飾ろか 接吻しよか
君が手折し 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺

作詞:西條 八十

シンは歌い終えると恥ずかしそうに一礼し、小さく座った。

彼女の美しい歌声に、皆が静かになった。

日本語を話さないシンが日本の歌詞で歌ったことに驚いたが、僕は蘇州を見たことが無いのに、その景色が見えたような気がした。
シンはこの歌を母親から教わったと言い、今でも日本語の意味はわからないと言った。

僕の隣にいた小李がこっそり教えてくれたのだが、彼女はここ数年蘇州に帰っていないとのことだった。
旧正月中とはいえ全ての仕事が休みということは無く、その期間は市内のレストランなどで働き、瀋陽で越年したそうだ。

シンが故郷に帰らないことについて少し気になったが、小李がその理由をどう説明しようか悩んでいる様子を見て、訊かないことにした。

気がつくと、先程のレストランでは酒をほとんど飲まなかったのに、皆が歌いながら飲んでいた。
楽しい時間に飲む酒が格別なのは、どの国でも同じだ。

夜中に店を出ると、すっかり人通りの減った道の電光掲示板は、マイナス8℃を指していた。辺りには、業者が路上を赤い提灯や金色の龍で埋め尽くすように、装飾の準備をしている。

あの夜から15年以上が経過したが、シンが歌う美しい蘇州夜曲と、彼女が愛した蘇州の景色を、いつか見られたらと思う。

Shenyang , 2006


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