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烟の街

自分と似た色彩を持つ人に、出会った事はあるだろうか。

全く違う場所に産まれ、全く違う景色を見て、全く異なる世界を歩んできたのに、何かが似ている。

葉や枝の形や数は人それぞれでも、根っこは1つの場所から始まっている。

言葉には出来ない感覚だけど、偶然にも同じ根の色を感じた時、その瞬間から例えようのない近しさを覚える。

そんな人はきっと、必ず世界の何処かに今も生きている。

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中国・山東省に位置する烟台(煙台・Yantai)という街は、古くから中国屈指の漁港である。今は一部のエリアが中国国内でも人気のリゾート地に変貌を遂げたが、相変わらず商業が盛んな地域である。

街の名前は14世紀に多く活動した倭寇(海賊や密貿易)の襲撃時に、丘から警報の狼煙をあげた事に由来する。
もちろん現代ではそんな慣習は無いが、それでもこの街に行くと、広大な田畑から燻される煙や寺院のお香、漁港のあちこちから出る巨大ボイラーの湯気にいつも覆われ、その名の通り、煙の街のイメージがあった。

日本から韓国・仁川を経由し、そこから1時間で煙台空港に降り立つと、瘦身で背の高い『李』君が待っていた。

彼は笑顔で出迎えてくれ、いつも通り流暢な日本語で挨拶をした。

クルマに乗ると、出来たばかりだという整備された広いハイウェイを走り、空港から大した時間も掛からずに市内に入った。

彼は早々に、滞在中のスケジュール確認をした。
当時、仕事で幾つか大きな山場に直面していて、緊急的に僕は煙台に向かった。
その日は到着が遅い時間だったこともあり、滞在する大酒店(ホテル)へチェックインを済ませ、近くで夕飯を食べる事にした。

中国の街は、その大小に関係なくいつも人で溢れている。
路上で色とりどりの線香を売る者、シンプルなマントウ(饅頭)を幾つか袋に入れて売り歩く者、ひっきりなしに電話を取って大声で話し続ける商店の店主、野菜売りと買い物客が商品を載せた机を叩いて交渉する人々、丸々一羽の鶏を鉄板で炙り、あたり一帯に香ばしい匂いを漂わせる露店。

たった数時間前まで日本にいたのに、今は全く違う雑踏の街角にいた。

僕は普段から、彼の事を『小李(シャウリー)』と呼ぶ。

中国には厳格な敬称が幾つもあり、多すぎて未だにちゃんと理解できていないんだけど、彼は僕と同年である事から、小を付ける事によって、日本でいう「君」と似たような意味になる。(厳密にはそこにもう少し親しみを込めた意味になる)

「老」を頭に付けると日本ならイヤな顔をされそうなモノだけど、中国ではかなり尊敬している意味合いになるらしく、言われれば相手は喜ぶだろうという話を延々と聞くのが面白かった。

僕達はホテルから歩いてすぐ近くの居酒屋に入った。
店内は青みを帯びた冷たい色の蛍光灯で照らされていたが、青島ビールはあまり冷えていなかった。

仕事のトラブルは決して軽くは無かったが、その問題もようやく軌道修正が出来かけている所だった。
遠く離れた場所での仕事となると、国内の様に電車や徒歩ですぐに向かうという事が出来ない。

咄嗟に確認して欲しい事もあるし、早急に方針を変更しなくてはならない時もあるが、小李はどんな時でもそのリクエストに応えてくれた。

海外では、仕事の価値観が合わないが為にトラブルがよりトラブルになるという事は日常茶飯事で、日本では当たり前のことが海外では通用しない事がわりと頻繁にあった。

けれど、小李だけは最初から嫌な顔もせずに仕事を進めてくれた。
彼と付き合って数年が経過しているが、徐々に僕は彼の持つ日本人的な感覚が不思議になっていた。

時に徹夜をしてまで作業にあたってくれた事もあったのだけど、そのコトを彼は言わない。
あとになって工場から聞かされて驚き、その度にお礼を言ったりするのだけど、彼は『問題が前進するなら、そんなコトはどうでもいいんです』と、いつも意に介さない様子だった。

滞在も数日が経過し、試行錯誤の結果、難題が徐々にクリアになってきていて、このままいけば問題はほぼ無いだろうというところまでひと段落した。

或る日の夜。
僕は夕飯の後に彼を誘い、街中にある日本式の居酒屋へ行った。
オープンしたてだという落ち着いた雰囲気の店内は空いていて、静かだった。

一通り仕事の話をした後、小李はどこでそんな流暢な日本語を話せる様になったのかを尋ねると、彼は一瞬だけ説明を躊躇う様な仕草をした。

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今から約20年前、彼は日本の田舎町にいた。
自国で日本語を勉強し、やっとの思いで手に入れた就労ビザと共に、同郷の仲間達を引き連れやってきた。
その街は紡績がとても盛んで、当時、仕事は多忙を極めたという。

仲間内の中で唯一、小李だけが仕事に支障の無い日本語を話せるので、すぐに彼はリーダーに抜擢された。
会得しなくてはならない事は幾つもあり、その殆どが資格に直結していた。

紡績工場では、トミナガさんという責任者が彼とのコミュニケーションの柱になった。
トラブルがあればすぐに最初に呼び出され、小李がその状況を誰よりも早く理解をして、仲間へ通訳した。

例えそれが彼が起こした問題でなくても、先ず最初に彼が叱咤されたそうだ。
トミナガさんはとても仕事に厳しい人で、意見の食い違いにより、よく小李とも衝突した。

そんな厳しい毎日が続いたある日の冬、小李の仲間達が挙って中国へ帰ろうと言い出した。

日本語もろくに話せない仲間達は日々の生活に耐えられず、ストレスも最高潮に達していた。
資格を取得するまであと少しという所まで来ていた小李達は、夜中に宿舎の前でなんとか諫めようとする小李と揉み合いになり、仲間の女性の1人が大声で泣き出した。

そして真夜中にも関わらず、小李は宿舎の近所に住むトミナガさんの家のドアを叩いた。

つらい。
僕達はもうしんどいので辞めたいと泣きながら言った。

トミナガさんは彼らの窮状を全て聞いたあと、言った。

仕事はみんなつらい。
俺だって、若い頃は逃げだしたくなる日もあった。
だがそこで逃げてしまったら何も残らないんだ。
短い時間で難しい技術を会得するというのは、そういう事なんだ。
もう少しだけ、頑張れないか。
辛い事があるなら、俺にいつでも言え。
トミナガさんは、その仲間達と涙を流した。

小李はそこで起きた2年間を、今でも感謝しているという。

最初は無茶苦茶だと思っていた事が少しずつ理解できるようになると、その無茶苦茶の1つ1つが嘘のように繋がっていったそうだ。
田舎町の人々とも打ち解け、その街でとても世話になった事、誰一人漏らすことなく合格へ導いたトミナガさんの熱意は、間違いなく彼らを変えたそうだ。

帰国の日には、仲間の数人が帰りたくないと言い出し、みんなで大笑いした事も話してくれた。

「日本では、そういうのを”根っこ”というと聞きました。日本でも中国でも、根っこは同じだと思ってるんです。だから田所さんが困っていれば全力で助けるし、僕達は最後まで付き合いますよ。」

そう言って照れくさそうに話す彼の横顔を、僕はいつまでも忘れないだろう。

彼と歩んだ道のりは、一言では語れないほどたくさんの思い出がある。

僕は烟台という街を思い出す度、煙った街と共に見える淡い夕陽が目に浮かぶ。

鮮やかという言葉はあまり似合わないかもしれないが、そこには幾つもの思い出が蓄積された夕暮れがある。

煙の街にいる友がいつか何かの困難に直面した時、僕はいつでも彼の話を聞く用意をしておこうと思う。


我总是心存感激。
让我们继续做朋友。


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