誰かが見ている「夢」のような映画 『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』レビュー

ブルース・チャトウィンの本は学生時代に一度読んだことがある。確か『ウッズ男爵』と『ソングライン』の2冊だったと思う。私は当時、海辺に佇む大学に通っていて、そこの図書館から借りたと思う。さっきから思う、と書いているのは読了したがあまり印象に残っておらず、この映画が公開されるまで罰当たりなことに読んだことはおろか、チャトウィンその人の存在すらすっかり忘れていたからだ。ごめんなさいチャトウィンさん。で、映画をきっかけに読み直しているところだが、当時は随分いい加減に読んでいたなと、反省しきりである。それほどまでにチャトウィンの綴る文章は豊穣で、なにより面白い。

私はまぁそういう人間であったからして、現在公開されている映画『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』を見る動機は少なかった、と言わざるを得ない。しかし奇しくも、本作は今年閉館となる岩波ホールが最後に興行する作品である。あぁ見納めだ、最後に足を運ばないと、という思いもあり映画館に足を運んだ。上映時間になり、いつもなら予告が始まるのだがそれは無く、代わりにあまりにエモすぎてそれだけで泣ける映像の後、本編が始まった。

内容を紹介するなら、こうだ。本作はドイツを代表する映画監督ベルナー・ヘルツォークのドキュメント作品である。彼の盟友であったブルース
・チャトウィンが旅した足跡をたどりながら、チャトウィンゆかりの人々を訪ねていく。ポイントなのは、本作が伝記という枠組みに収まらない点だ。『パタゴニア』のパッセージを読み上げるチャトウィン自身の音声が流れ、次に画面に映し出されるのは、彼の文学の舞台となった南米の洞窟やソングラインオーストラリアは言うに及ばず、カメラは彼やエリザベス・チャトウィン夫人が愛したイギリスのエーブベリー遺跡を巡って余すところなく映し出す。ヘルツォークがチャトウィンから受け継いだ立派な革製のリュックサックと、それに纏わるエピソード。生前の、といってもHIVに感染し生死の間をさまよっていた痛ましい姿のチャトウィン。チャトウィン原作、ヘルツォーク監督作品『コブラ・ヴェルデ』の撮影現場に顔を出したブルースと、現地で起用した役者や王族との思い出話に花が咲く。給料未払いで暴動が起き、原作小説を読み王がブルースに言ったのは「遠回しな本だ」。その感想を聞きブルースは何故か喜んだという。私も読んでみたくなった。


先ほども書いたがこれはブルースの伝記映画ではない。彼の真実の姿だの隠された男女関係だの、ヘルツォークはゴシップの類に何ら興味も抱いていない。上記の内容説明のとおり、本作でヘルツォークが作り上げた映像世界はいい意味でパッチワーク的であり、別の言い方をすればとりとめもない。映画は全8章に区分けされ、整理されているが、作品を通して何を言わんとするのか見え辛い。後で書くが、そういう分かりやすい映画ではないのだが。

このような『歩いて見た世界…』をみていてあぁ似ているな、と感じたのはトーマス・ハイゼ監督作品の『ハイゼ家百年』である。55年に生を受けたハイゼもまたドイツの作家であり、彼は第一次大戦から現在に至る家族の足跡、自分自身のルーツを辿っていく。ナチスによる迫害を受けた祖父母と両親、ハイゼ自身も冷戦体制による不自由や迫害を経験し、そして現代で生じた新たな不寛容に映し出す。祖父母や両親の代にはフッテージこそ残っていないが、ハイゼは彼らが残していった文章や書簡、写真、またナチスが強制収容制作のために用意したユダヤ人の名簿といった公文書を映像化して、当時の空気や社会を再構築していく。『ハイゼ家百年』は存在しないフッテージの代わりにそれら「歴史の資料」を利用したパッチワーク的な映画、という一見すれば映画らしくない映画、そもそも映画でやる意義は果たしてあるのか、と首を傾げる作品ではある。しかしそこらの劇映画では到底到達しえない、ユニークな美学、異議申し立てを決して許さない強度、何より真摯さを湛えている。彼らが味わったであろう怒りや苦しみ、そして容赦なく押し寄せる国家の暴力の前に諦めざるを得なかった人々の無念、といった感情すら現代に蘇らせようという前代未聞の試みがなされた。感情史的かつアナール学派的な試みを、ハイゼ監督は映画製作という舞台に適用した。そうしてハイゼが編集作業から浮かび上がらせた歴史観は、追従を許さない。国家やイデオロギーが要請するわかりやすい物語的な歴史、と真っ向から対立する反物語的な性格をもつ歴史なのである。それは第三者に納得させ理解させるという義務から解放されている。

映画ではないがパッチワーク的といえば、アサンブラージュの名家にして現代ではアウトサイダーアートの重鎮とされるジョゼフ・コーネルの作品も彷彿とさせる。ここでわざわざ説明するまでもなかろうが、コーネルの作品は小さな函の中に切り抜きや商品のパッケージ、工芸品の部品をつなぎ合わせた唯一無二の世界を生み出した。貧困と、脳性麻痺の弟の介護に追われる中、コーネルは独学で芸術をおさめた。その諸作品も『ハイゼ家』と同様に、決して派手ではないし、誰もが楽しめるようなふわふわしたアートなどではない。リテラシーのない者が一見すれば寧ろ暗く、理解しがたいガラクタみたいなものかもしれない。しかしながらそこには確固とした美学が貫かれている。他者の意見や忖度の介入を許さない「頑固さ」や「融通の利かなさ」といった、「強さ」のようなものがあるのだ。

さて、『歩いて見た世界』にせよ、『ハイゼ家百年』にせよ、コーネルの諸作品にせよ、果たしてこのとりとめのなさは何なのか。それは我々にあるものを彷彿とさせる。まるで、我々が寝るときに見る「夢」なのである。

上記で説明した、コーネル的なパッチワークの造形物なり映像なりを構成する説明し難い「強さ」は、夢の性質に由来している。記憶や思い出といったパーソナルな材料を基にして構成される夢は、誰も踏み込めないその人だけの領域であるから、「夢」的な文脈は、分かりづらいかもしれないその一方で他者の介入を許さない強固な説得力をもつ。

『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』はつまるところ、誰かの見ている夢みたいな映画といって差し支えないと思う。ヘルツォーク監督をはじめとするチャトウィンの人生に接し、彼を愛する人々が見ている夢を再現しようとする試みがなされた映画なのである。そうすることで、ヘルツォークたちは自分自身のチャトウィン観を守ろうとしている。誰もが好んで群がる下世話なスキャンダルや無意味なラベリングによって、チャトウィン像を歪められるのを。彼のかけがえのない盟友として。

そしてラスト、ソングラインの一句を唱える声とともに、雑木林を通る一本道をカメラは悠揚と進んでいく。地面に木漏れ日が揺れる中、まるでブルースの魂を導くかのようなカメラワークで。どうか迷わないように、世間の声や好機の目であなたが変わりませんように、どうかそのままのあなたでありますように、と祈り、ともに送るかのように。なにより、旅を愛し、病床に伏している最中であっても旅をすることを夢見た彼への、ヘルツォークなりの餞なのではないだろうか。あなたの旅はまだ始まったばかりだよ、と。そんな優しさに満ちた映像で、この映画は幕を閉じる。ヘルツォークってこんなセンチメンタルな作家だったのか。


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