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『天使の翼』第3章(3)~吟遊詩人デイテのネバーエンディング・アドベンチャー~

 さて、これからどうしたものだろうか?
 夜明け前のひんやりとした微風に吹かれながら、わたしは、プライベート・エリアの搭乗タワーへと歩いた。早くも、早朝便のシャトルの到着が始まっており、巨大なスペース・ポートは目覚めようとしていた。
 具体的な行動計画は何もないものの、もちろん、最低限の打ち合わせはしてあった。
 ――わたしとシャルルは、姉弟の吟遊詩人として旅をする。サンス大公国に入国するまでに、いくつかの恒星系を訪れ、これが難しいところだが――評判を取って、紹介を得て、サンスの国境を通過しようというのだ……
 シャルルとは、標準時で三日後、首都から35光年離れたポート・シルキーズを会合地に決めた――そこは、多島海からなる観光の星で、人の出入りが多く、吟遊詩人が何人いてもおかしくはない。
 シャルル――この不思議な青年は、ギターをたしなむという。吟遊詩人として通用するだけの腕の持ち主なのだろうか――いぶかるわたしに、彼は――
 「あなたは、僕のギターの調べに乗って、天空高く舞い上がるでしょう」 ――と言ってのけた。冗談で言ったのだが、その時初めて、わたしは、シャルルの笑顔を見た。……その笑みは、とても子供っぽくて、わたしは、少し……ほんの少しだけど、母性本能を刺激された――ここだけの話……
 わたしは、ターミナルでロボット・エアタクシーを拾い、ひとまず郊外の家へと向かうことにした。海岸沿いのエアカー誘導路を降りてすぐの、岬の奥まった突端に、そのコンドミニアムはある。
 首都から標準時30分の距離――
 交通の便がよく、幹線道路に近いのに、細長い岬の突端にあるため、喧騒を離れ、周囲を自然に囲まれた隠れ家だ。
 断崖絶壁の上の建物。部屋から見た、さえぎるもののない海の広がり――
 柔らかなオレンジ色の朝焼けから、青い燐光を放つ月明かりにいたる光の饗宴――
 ……わたしは、三年前、ここを購入する贅沢を自分に許した――
 見るだけ、と決めて、不動産屋に案内してもらったのだが、この立地と部屋を見たわたしは、すっかり虜になって、子供のようにすぐに自分のものにし、引っ越してこなくては気がすまなかった。
 祖母が亡くなって一人になったわたしが、ダウンタウンの生家を引き払ってから、二軒目の家。
 わたしがこの世で最もくつろぎを覚える場所――セーフハウス……開け放った窓辺のソファーにくつろぎ、大好きな読書をする一時……
 わたしは、岬のうっそうと生い茂った原生林の中をくねくねと縦断する道を、エアカーのバックシートに揺られながら、緊張していた心が徐々にほぐれてくるのを感じていた。
 (そうだ。もともと、この家でゆっくりしたくて、アケルナルへと帰ってきたんだわ……)
 朝早い、白く息を潜めた空気の中、熱帯性の樹林が車窓を流れて、やがて、エアカーは、静かに建物の車寄せに着地した。
 わたしは、ギターとわずかばかりの手荷物を肩に、大股で人気のない建物の風除室を入った。
 建物は、わたしを、懐かしいにおいと、温かい空気で迎えてくれた。
 天涯孤独で宇宙の旅人であるわたしは、すべてを忘れて、心の底からほっとするのを感じた、と――
 わたしは、小さい悲鳴を上げた。
 うれしい驚き――建物の海側の開口部から侵入してくる野良のアケルナル・キャットが、わたしの首筋に飛びついてきたのだ。何か大きな生き物に咬まれたのだろう、前足の古傷を少し引きずるこの娘は、まれにしか帰ってこないわたしに、何故かひどくなついていた。白と灰色の縞の体で、わたしの首筋にマフラーのようにしがみつき、耳元で小さく鳴いた。
 (そういえば、わたし、この娘に名前をつけてなかったわ……)
 わたしは、猫の首筋を撫でてやりながら、一途にわたしを見上げるつぶらな黒い瞳を、見詰め返した。
 吹き抜けとなったロビーのエレベーターへ向かいながら――
 (しまった!)
 アケルナル・キャットがお腹を空かしてないか心配した瞬間、自分のことを考えたわたしは、途中で食料品の買出しをしてこなかったことに気づいて、思わず毒づいてから、次には笑い出してしまった。猫が、わたしの胸に前足を突っ張って、不思議そうにわたしの顔をうかがった。
 部屋でのんびりするにしても、よく考えたら、一年分の埃を払わなくてはならないし……わたしは、とっさの判断で、今日のところは、何かあるであろう保存食で済ますことにした。気力をもう一度奮い起こして、部屋の掃除をし、それから、シャワーを浴びて、肌に心地よいローブでも羽織って、ゆったりとくつろぐとしよう……
 わたしは、エレベーターで11階のペントハウスへと直行し、一年振りに、しんと静まり返った部屋のキーに右手の平をかざした。
 わたしの部屋は、わたしのこと――正確には、掌紋と静脈網――を忘れてなかったようだ。カチリという音が3回続いて、錠が開いた。わたしは、肩に荷物を背負い、左手に猫を抱いたまま、右手で扉を開けた。ギターの弦を扉に挟まぬよう、慎重に扉を閉じる。
 カーテンの閉じた薄暗い部屋に、わたしの腕からアケルナル・キャットが身をくねらせて飛び込んでいった。
 わたしは、久しぶりに自分のにおいを嗅いだ。人は、こんなささやかな幸せに、急に自分がいとおしくなったりする……ずっと旅の連続で、今このときも身に余る使命を担っているわたしには、絶対に休息が必要だ……
 わたしは、すべての部屋の窓々を開け放ち、コーヒーを入れる間だけちょっとくつろいでから、無心になって部屋の掃除をした。何も考えずに自分の住処をきれいにするのは、心安らぐ快感だ……
 あたかも瞑想によって清らかな心の高みに達するがごとく、わたしは、いつの間にか、体だけを動かす作業にどっぷりと浸りこんで、気付いた時には、太陽(アケルナル)が南中していた。心は、晴れやかに透き通っていた。
 わたしは、框に腰を下ろし、ベランダに素足を投げ出して、額の汗をぬぐった。ベランダの縁の排水溝にそって土塊の吹き溜まりができていて、得体の知れない鳥の羽の混ざったそれから、つややかな薄緑の葉をした植物が立ち上がっている……。わたしは、わたしの股の間に鎮座したアケルナル・キャットの首筋をうっとりと撫でながら、どうしたものかと思案した。
 ――けなげな植物の根を抜く気にはどうしてもならない。そのままにしておこう……    
 わたしは、そのまま眠くなってしまう前に何とか立ち上がって、部屋に戻り、歩きながら身にまとった物をすべて脱ぎ落とした。
 ルーム端末で、ギャラクシー・テレコムを選択し、さらに、航宙会社をクリックする。無数の会社名が画面を流れた。……少し迷った末、わたしは、過去に数回だけ使ったことのある航宙会社を選択した。これだと、わたしがアケルナルから姿を消しても、すぐにはどこだか分からないだろう……かといって、過去に一度も使ったことのない会社では、わたしが自由人であることの証明や何かで、かえって足がつくから…… 
 予約は、二日後の早朝便にした。――かまうものか、二日間、わたしは、わたしに自由を与える!


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