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『天使の翼』第4章(10)~吟遊詩人デイテのネバーエンディング・アドベンチャー~

 わたしにあてがわれた部屋は、ロイヤルやスーパーといった冠詞は付かないかも知れないが、サザン・アイランドのほぼ全貌と、セントラル諸島の主要な島々、そしてライトアップされたマウリキス城まで見渡せる素晴らしいスイートだった。クリプトンの公演初日に、飛び入りのわたしにこの部屋を用意してくれたことに、わたしは、言葉以上の重みを感じた。
 わたしは、壁面いっぱいの窓辺にソファーを引っ張って行き、部屋の明かりをすべて消して、横坐りになった。すでに食事とシャワーは済ませ、心の準備は整っている。
 夕日の最後の残照が刷毛で刷いたように消えていき、海と島が夜の帳に覆われていく様を眺めながら、そして、まるで天空の星々と競いあうように、島々が街の明かりを身に纏っていく様を見下ろしながら、わたしは、心の中にリズムと歌を漂わせた。この部屋にいる限り、シャトルの中で曲想を練った時のように、心を外界からシャットアウトする必要は、全くない……
 吟遊詩人は、即興を神髄とする。
 歌を歌うその場で歌を紡ぎ出すのだ。
 そのためには、歌を歌うその場の空気を、自分の体全体を海綿の様にして吸収し、自分の直感を頼りに言葉に置き換えていく――そして、同時にその言葉の感興に乗せた旋律を歌い出す……また、その場の空気を正しく感じ取るためには、その土地のことをはじめとした予備知識も必要で、ただやみくもに直感だけを頼りにしてはいけない……一人を相手ならそれでもよいのだが、大勢を相手に歌う時に、生半可な思い込みは禁物だ。
 わたしは、セントラル諸島の夜景と会話しながら、歌の輪郭がおぼろに浮かび上がるのを待った……おぼろげでいいのだ――歌の会場に行く前に固めてしまってはいけない……
 「さて」と、わたしは、声に出して立ち上がった。いくつかの即興の曲を、そして、お気に入りの持ち歌を織り交ぜて、ステージに臨むとしよう。
 わたしは、今夜出会う会場の人々に、一人の吟遊詩人として真正面から立ち向かっていく心意気になっていた――いつの間にか、サンスへの切符を得るために有名になることも、そのためにバージニア・クリプトンと張り合うなどという気持ちも消えてしまっていた。
 吟遊詩人は、絶対にレコーディングしない。
 一期一会の場をビデオに撮って後から見ても、そこにはもはや価値はないのだから……
 わたしは、今日会場に居合わせた人一人ひとりに、ほのかな心の明かりをプレゼントしたかった。

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