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『天使の翼』第3章(5)~吟遊詩人デイテのネバーエンディング・アドベンチャー~

 実は、自分の家なのに、長期に滞在したことのないわたしは、岬の断崖の下に目の覚めるような真っ白な砂浜のあることを、一年前まで知らなかった。建物の海側の庭のはずれにある、ちょっと気付かないような薄暗い小道をたどると、乾き切った木目の浮き出た、木製の橋と階段からなる桟道があって、崖下の砂浜へと這い下りていたのだ。
 わたしは、夕やみが夜へと移ろい、またたく星の数がみるみる増えていく中、誰もいない砂浜へと降り立った。
 波の音と潮の香りが、わたしの顔に吹き付けてくる。
 わたしは、リズミカルな海の鼓動に包まれて、砂浜の真ん中にぺたりと腰をおろした。ちょっと寒いのか、猫がわたしのふくらはぎにすり寄ってくる……
 そうやって、何も考えずに、海との会話に身をゆだねていたわたしの心の中に、今度は、別れわかれになっている家族の記憶が甦ってきた。
 漂白され摩滅した貝殻で出来たさらさらの砂を、両手にすくい、砂時計のように万有引力の法則にゆだねているうちに、流れ落ちる砂という名の即席のタイムマシンが、わたしの心を過去へといざなっていく……
 わたしを祖母に預けたまま、二度と帰ってこなかった両親……
 標準年で六歳に満たないわたしには、全く理解できなかった――今でも答えのない出来事……何も説明しない祖母……二人は、わたしを捨てたのか?……何故?……何年も後になって、恒星間連絡船の爆発事故で亡くなったという吟遊詩人仲間の風聞は?……
 祖母は、かたくなに口を閉ざし続け、秘密を胸に抱いたまま、帰らぬ人となった。
 自らの滅んだ肉体を宇宙葬にすることを望み、今も漆黒の宇宙空間を漂い続ける祖母から、わたしは、二つのことを学んだことになる――ギターの指運びと、そして、この世には、謎のまま置かれていることがある、ということを……
 一つだけ確かなことは、幼いわたしに残された、唯一つの宝物――いつも穏やかで優しかった父と母の記憶……何があったにせよ、わたしを捨てたのではないことだけは確かだ。……何かはわからないけど、どうにもならない事情が、きっと……
 わたしは、その事情が、わたしの両親に悲惨な結果をもたらしていないことを、祈る。
 わたしは、また、兄とももう長い間会っていない。
 わたしより十上の兄との別れは、わたしが八歳になるかならないかの春のことだった。両親の失踪から二年後のことで、当時兄にべったりだったわたしは、激しく動揺した。
 兄がアケルナルの旧市街にあった祖母の家を出ると言い出したのは、まったく突然のことだった。やさしくて、物静かな兄ケインは、ずっとわたしの側にいるのだと信じ込んでいたわたしは、いきなりすがるもののない深い水の中へと放り込まれた。わたしが、両親の失踪に耐えることができたのは、兄の存在があったからだ。その兄までが、わたしのことを捨てていこうとしている……
 祖母は、意外と冷静で――
 「血だ。血が騒ぐんだね、ケイン」
 ――と、引き留めない。
 兄も、弁解がましいことは何も言わず――
 「うまくなるまで戻りません」
 ――と、静かに、だけど、それは決然とした表情だった。
 兄が、吟遊詩人として独り立ちしようとする夢、今でこそ理解できるが、当時わたしは、ただただ悲しくて泣きじゃくった。
 そんなわたしに対して兄は、いよいよ別れというその時――
 「愛しているよ、デイテ。お兄さんは、いつかお前が大人になった時、おまえが必ずびっくりしてくれる歌と一緒に帰ってくる。僕にとって歌は全て。お前は、この世でいちばん大切な妹……」
 ――その時わたしが兄から受けた口づけにまさる接吻を、わたしは知らない。わたしは、スーッと気持ちが落ち着いて、兄の愛に包まれているという安らぎを感じた――たとえ離れ離れになっても……
 歳月は流れ、今やわたしも吟遊詩人だ。
 ――ここ数年、仲間や、わたしのステージである宿屋のマスターといった、風聞の宿主たちから、折にふれて聞く噂がある。
 ――辺境に見事なギターの使い手がいる。彼の名はケイン……
 兄のことだろうか……
 (早く戻ってらっしゃいよ、ケイン。恥ずかしがってないで……それとも、まだ、納得のできる歌が出来ないの?)
 わたしは、今のわたしの姿を見て驚く兄の姿を思った……ポロリとまつげをこぼれ落ちた涙が頬を伝った……
 いつの間にか、わたしの膝の上に立ってわたしを見上げていた猫が、か細い鳴き声を上げた。
 わたしは、手の甲で涙の航跡を拭い取り、猫を抱きあげた。
 (帰ろう)
 わたしは、ひたすら眠りたい気分になっていた。緊張の連続が、わたしの神経を研ぎ澄まし、ふだんなるべく考えないようにしていることまで考えてしまう……
 (このままじゃ、参っちゃう……)
 その夜、わたしと猫は、食事もそこそこに、一年ぶりの程良くかたいわが家のベッドに寝ころがった。
 (気持ちいい……とっても……すべすべのシーツ、猫ちゃんの毛並み…………)




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