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【日本とアメリカ】          「同じ」と「違う」 日本のサル山に思うこと


ここアメリカは移民の国で、基本的に多文化・多民族だ。多様性社会で生きる人々は皆それぞれ「違って」いて、幸せの形もそれぞれ「違う」
幸せの基準が決められていないから、それぞれがそれぞれの幸せに向かって生きている。
そんな「違う」社会で生きる人々は基本的に平等であり、同じ高さの目線で人間関係を築く。


一方、日本はひとつの民族・文化・言語の社会で「同じ」をよしとする独自の価値観をもつ。幸せのかたちも皆「同じ」で、幸せであるためには「同じ」基準を満たさなくてはいけない。人々は他者と「同じ」でなくてはいけないと教育され「違う」ことは悪であり、嫌われる。常に「同じ」が要求され「違う」は受け入れられない。

そんな出る杭が打たれてしまうような社会では、それぞれが「独自の個」であることが認められてこなかった。しかしやがて、認められなかった個は「同じ」の中の「違う」になることで「同じ」幸せになれることに気づいたのだ。ややこしい。

「私はこんなに幸せの基準を満たしていますよ〜」という切実な叫びで、「私はあなたと違っているから、あなたよりも幸せ」な個であることが認められる。これがいわゆる【マウンティング】といわれる行為だ。
そして、皆が「同じ」幸せを目指さしながら、そこに他者との「違い」を求めるという矛盾が、日本独特の「差別」や「区別」を生み出した。

年齢・性別・職業・学歴・家柄・出身地・容姿・能力・収入......
他者との違いを求め、偏差値の高い学校や一流有名企業に「入ること」が、日本人の生きる目標になってしまったのである。それが「同じ」幸せの基準を満たす要素であり、認められる要素だから。


アメリカでは、人種や性的指向に対する差別が日常的に多いが、マウンティングのように他者との関係性に上下をつけることはない。お互いがお互いの「個」を尊重し認め合っているからこそ、どんなときでも対等で、一方が偉くてもう一方がへりくだるというようなことはないのだ。職業とか学歴とか、そんなもので他人を判断しないし興味もない。
バックグラウンドが異なる人間が多いと「違う」はあたりまえ。それぞれが独自の個性で勝負しているのである。


そもそもマウンティングはサルの順序確認行動である。人間は人間らしく、理性と知性で生きなくてはね。

おーい、お猿さんたち。
ステレオタイプのサル山で雄叫びを上げながらてっぺんを目指すより、
そろそろ山を降りて人間に戻ってみてはいかがか。

みんな違って、みんないいんだから。



明日も佳き日〜

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