見出し画像

妻の誕生日に”プレゼントを自分で買わせてしまった”話

「プレゼント決まったけど、これにしようかと思って。」

妻はそう言うとぼくにスマホを見せた。妻の好きなブランドショップのサイトだった。

妻は10年前の新婚旅行で買った水着をまだ着ていて、そろそろ年齢に合う水着を欲しいと言っていたのだ。

「あぁ、決まったんだね。いいんじゃない。」

ぼくは仕事用のスマホで客先にメールしながら、妻を横目に見てそう言った。

「買うけど、いい…?」

妻の言葉に含まれたかすかな違和感を無視し、ぼくは「あぁ」と返事をし、仕事部屋へと戻っていった。

それが大きな過ちであることにぼくが気がついたのは、3日後のことだった。

何年も前から、ぼくは妻へのプレゼントは事前に本人に聞き、妻が欲しいと思うものをぼくが買うという流れになっていた。

妻がネットで欲しいものを探し、そのリンクをぼくに送ってくる。

ぼくはそれをネットで買い、誕生日に妻に渡す。

今年はそれを妻に買わせてしまったのだ。

妻は届いた水着を見て、(あぁ、これ私が自分で買ったんだよな……。)と寂しく感じてしまったそうだ。

ぼくらは銀行口座を共有していて、妻にはぼくのクレジットカードの家族カードを渡してある。

妻がネットで買ったものの費用は、ぼくの銀行口座から引き落とされることになっている。

だから、ぼくは無意識のうちに(妻が自分でネットで買ったとしても、ぼくがプレゼントしたことになる)と思い込んでいたのだと思う。

妻から(あぁ、これ私が自分で買ったんだよな……。)という言葉を聞かなければ、ぼくは自分がやったことの重大さに気がつかなかっただろう。

忙しさにかまけて、お金さえ出せばいいと、ぼくは無意識のうちに思っていたのかもしれない。

お金さえ出せばプレゼントをしたことになると。

お金させだせば、妻の誕生日を祝ったことになると。

でも、妻の「寂しかったんだ」という言葉を聞いた時に、ぼくは大きな間違いを犯したことにやっと気がついた。

たとえ、お金がぼくの口座から引き落とされるのだとしても、たとえ妻が欲しいものを手に入れられたとしても、ぼくの気持ちがそこに乗っていなければ意味がないんだ。

妻はよくこんなことを言う。

「あたしのことを思ってくれているという実感が欲しい」

昔、海外出張が月に一回はあった頃、妻によくお土産を買って帰っていたのだけど、段々と買わなくなったことがあった。

いつも同じようなものを買って帰るし、毎月のことだから別に妻もいらないだろうとぼくは思っていたのだ。どうせいつも同じチョコレートしか買わないのだし。

だけど、ある日妻がぼくにこう言った。

「どこかに行ってお土産を買って帰ってきてくれると、旅先でもわたしのことを考えていてくれたんだと嬉しくなるの」

お土産のチョコレートは妻の小腹を満たすためにあるのではなく、”ぼくが妻を思う気持ちを伝えるためにあったのだ”と、この時初めて知った。

なんてことないたった1個のお菓子がこんなにも人の心を動かすものだったなんて、ぼくは何にもわかっていなかった。

だからと言って、いつも妻に忘れずにお土産を買って帰るかというとそうでもなく、ある時、名古屋帰りに赤福を買って帰らなかったことがあり、かなり妻をガッカリさせてしまった。(妻は赤福が好きだったような気がしたのだが、うっかり買い忘れてしまった…)

(こんなどこでも買えるようなモノ、妻は要らないよな)と、いつも駅のキオスクで考えてしまうのだけど、そのモノの希少性が重要なのではなく、妻のことを考えているという気持ちを伝えることが大事なのだ。

ぼくはしょっちゅうそれを忘れてしまう。

誕生日プレゼントの過ちに気がついた翌日、ぼくは妻のバースデーケーキをまだ予約していないことに気がついた。

誕生日まであと1週間。急がないと予約ができなくなってしまう。

「今日、長男の習い事が終わったら、そのままケーキ屋に行こうか?誕生日ケーキを予約しに行こう」

土曜日の朝、妻にそう言うと「あたしが自分で予約することになりそうだなぁって思ってたよ。ありがとうね」と言われた。

そうそう、完全に忘れてたよという言葉を飲み込み、「いや、ケーキまで自分で買わせるわけにいかないからさ」と、家族みんなで街で一番美味しいケーキ屋さんに行った。

「好きなのにしなよ」と言ったのだけど、妻は「子どもたちが食べられるのがいいから」と言い、苺のショートケーキを選んだ。

「あたしも好きだし。苺のショートケーキ」と妻は言うけれど、いつも子どもたち優先だから、誕生日くらいは妻にわがままを言って欲しかった。

ぼくの誕生日も、子どもたちの誕生日も、妻がいつもこのケーキ屋で誕生日ケーキを予約している。

あやうくお金を払いそうになる妻を制して、今回はきちんとぼくがお会計をし、ケーキ屋を後にした。

ぼくはいつも妻の優しさに甘えていたんだと思う。

妻はぼくや子どもたちに気を使いながら暮らしている。自分自身の幸せよりも家族の幸せを無意識に選んでいるんだと思う。

当たり前のように組み込まれたその妻の意識は、日々の生活の中にあまりに自然に織り込まれていて、なかなか気がつくことができない。

妻は必ずぼくへの誕生日プレゼントや父の日のプレゼントを用意してくれていて、突然渡してくれる。

子どもたちの体調が悪くなった時には誰よりも早く気がつくし(こないだも、三男の朝の体温が微熱だった時にすぐに午後の病院を予約し、保育園から呼び出しを受け、そのまま病院に直行した)、ぼくが肉体的に辛い時も精神的に辛い時も、いつもまっさきに気がついてくれる。

妻はいつも誰かのことを考えている。

そして、そんな妻のことを考えてあげられる人は、ぼくしかいないのだと思う。

なのに、今年の誕生日は妻にプレゼントを自分で買わせてしまった。

お金を払って欲しかったわけではなく、欲しいものを買って欲しかったわけでもなく、ぼくがプレゼントを購入し、妻に渡すことで、妻は「ぼくが妻のことを考えている」という実感を感じたかったのだと思う。

なんだそんなことか、と思う人もいるだろう。

結局手に入るのだから同じだろうと。

でも、違うのだ。ぼくとぼくの妻にとっては違うのだ。

ぼくが妻のことを想っている。

それは単なる口先だけの言葉や、自分本位の行動で伝わるものではないんだ。

妻の心に響く方法でないとダメなのだ。

どれだけぼくが妻のことを大切に感じていようが、それが妻に伝わらなければ意味がないのだ。

その事実を改めて心に刻んだ誕生日となったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?