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映画における多様性の評価について

こんにちわ

 先日noteのCXOである深津さんがこのような記事を書いていらっしゃいました。

 要約すると「人々は多様性を求め尊重するという文化があるが、物事を唯一絶対的に指標化できる軸は、お金と数値だけであり、ますますその価値が高まっている」と指摘しています。そして、その価値を求めていく社会になっていくと多様性の価値は失われ、画一化してしまう、と。一方noteでは、多様性を大事にしたいので、ランキングなど画一化を促すような仕組みは導入しない。ただし、その人のモチベーション向上や多様性に賛同するということで”スキ”は残してある。

 というような内容です。勝手にまとめてすみません。

 この内容が非常に興味深く、最近色々考えていたことが少し腑に落ちたような感じがしたので下記に整理してみました。

はじめに

 僕は、映像業界の仕事をしながら、『ミニシアタークラブ』という形でミニシアターを応援していくという活動をしております。

 なぜそのようなことをやっているかというと、純粋に映画が好きであることに加え、映画館という場がとても大事だと思っているからです。

 学生時代に映画館でアルバイトをしていた際に、映画を観ているときのお客様の興奮するような反応だったり、終わった後の表情や感想を言われることがとても楽しかったです。暗闇の空間で半強制的に映像をみさせられながら没入していく、そんな仕組みが非常に面白いと思いました。

 そうした中、昨年のコロナ禍における映画館の閉鎖は辛いものでした。その状況を打破すべく『Save The Cinema』と呼ばれるミニシアターを応援する活動や『ミニシアター・エイド(Mini-Theater AID)基金』というクラウドファンディング、『Mini Theater Park』という俳優・女優が一丸となって応援とする施策など様々なことが行われました。非常に素晴らしいなと思いました。

 一方で、客観的な立場に立つと、そうはいってもミニシアター(映画館)への関心の低さを感じました。だからこそ、ミニシアター自体がインフルエンサーになり面白さ・楽しさを発信していかなければならない時代になっていると感じ、自分ができることとして、そうした活動をやっています。

2 「カメラを止めるな!」はつまらない!?

 さて、そうした中、先日映画業界の人達と話してて面白いなと思ったことがありました。それは「カメラを止めるな!」に関して一貫してつまらないという人がいるということです。

 おそらくこれを聞いたほとんどの方は、「えっ!」と思うと思われます。もちろん「(期待しすぎてみたら)そうかも」と思う人もいるかもしれません。かくゆう自分は、初期に池袋シネマロサで拝見し、面白い作品を作ったなぁと思った人間でした。

 では、なぜその映画が面白くないと思ったのでしょうか?

 それは、人としての感情の動きの演出が少ないからです。「カメラを止めるな!」の場合、登場人物はある枠組みの中で決められた通りに動きます。つまり、大きな空間の中で物事が起こっているところをうまくカメラワークで魅せていき、後半は裏設定を隠すことで、どうだ!面白いだろう!と見せる映画だからです。つまり、そこに描かれる人の感情の機微は少なめです(だって同じことを2回見させられるのですから・・)。

 一方で、そうした人たちがどのような作品を評価しているかというと、最近の例だと濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」(村上春樹原作)という作品があります。そして、本作はカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞するなど非常に国際的評価されている作品です。ただし、本作は3時間と長いので、ハマれなかった人は寝てしまうかもしれません。

 どのようなところが評価されているかというと、個性豊かな人物表現です。それはある人には共感できるし、ある人は共感できないというような人物の多重性を抱えるような表現であるし、登場人物がその映画で成長することにより表情や言葉じり、行動原理が徐々に変わっていくということです。

 そうした複雑性を兼ね備えているため、観る人は”なぜ?”の連続です。彼はあのときどのような心情でこの言葉を喋っていたのだろう。前半と後半で微妙に喋り方が変わっている、これはどういう意味だ?。どうして彼女は最後そこにいるのだろう・・。映像内には情報が限りなく落とされていて説明がありません。そのためとても集中することが求められます

 加えて、映画というフィクション表現でありながらも、あたかもその場で生で表現されたように感じ、そこでつぐまれた言葉が観る人のさまざまな感情に突き刺さっていきいます。”笑った”ということ”泣いた”という表面的な感情表現はなものだけではなく、深く心に刺さってくるのです。そうした人物の複雑性が評価を高めている要因になっているのだと思います。

2 数値としての絶対的評価

 では、これらの日本での数字=価値を見ていきたいと思います。

 「カメラを止めるな」は、ミニシアター1館(K's cinema)から始まり、徐々にクチコミが広がり最終的には全国353館まで広がって累計222万人動員、興行収入31.2億円まで行きました。

 これはどの程度かというと2021年の映画で比較すると、「東京リベンジャーズ」が40億円前後、「花束みたいな恋をした」が38.1億円、「STAND BY ME ドラえもん 2」が27.8億円で、それらと並ぶ興行成績だったといえます。

 一方で「ドライブ・マイ・カー」は、カンヌで日本人初の脚本賞を受賞した作品ということもあり、ミニシアタージャンルの作品でながら100館以上の映画館で公開されました。興行収入は公開週の土日で動員2.2万人、興行収入3,080万円でした。通常はヒットしてもこの6倍なので、おそらく最終興行収入2億円あたりになるかもしれません。

 そうすると、数字だけで比較すると「カメラを止めるな」の方が良い映画といえます。

3 映画の多様性とは

 ここで、最初の話に戻ります。多様性についてです。

 おそらくヒット(多様性の社会の中で受け入れられる)するためには感情の揺らぎを極力削ぎ落としていき、『画一的な/わかりやすいフォーマット』にすることが大事なのだと思います。

 一方で、『感情の多様性=なぜこの人はこんなことをするのか?という理解できるような、できないようなといった心の揺らぎを残した(=とても人間臭い)もの』を描いた場合、それは複雑なフォーマットであり、玄人好みの映画好きには評価されやすいという傾向があります。

 前者の画一的な映画については、鑑賞者の理解レベルがある程度一致しているので、観賞後の感想について、人物描写の内容は少なくなりがちです。そして、シークエンス的にあそこの箇所が面白かったというようなものが多く、そこで得た感情はその日のうちに消えてしまう可能性があります。

 例えば、先ほどの「カメラを止めるな!」を思い出してください。本作のテーマはカメラを止めずに撮った30分ノーカットのホラー映画とその裏話です。こうした映画は迷うことなく映画を見ることができます。

 一方で後者は、よくわからないので、何日もモヤモヤ(余韻)が残ります。そしてふとした時に『あの時、あの登場人物が言った意味はこういうことかな?』というようなことを思ったりします。

 最近、鳥取に新しいミニシアターを設立した、ジグシアターの柴田さんにインタビューしたのですが、その際に、うちは「とまどい」ということを大事に映画セレクトを考えると言っていましたが、まさにそうしたこうした何日もモヤモヤを起こす「とまどい」が多様性の高い映画の要素と言えるのかもしれません。

 つまり映画という内容もそうした画一的なヒットという構図と多様性で文化的な要素という葛藤に常にさい悩まされているのです。そして、残念ながら現在はますます画一化が進んでいるのではないかなと思います。

4 ゆとり教育の弊害(歴史的背景)

 つい先日、中国の習近平が下記のような発言をしました。つまり格差社会を是正し共同富裕を目指していこうという流れです。

 そして、これは日本のバブル崩壊後に行われたことでもあることが思い出されました。それは、切磋琢磨に学業や仕事をしていた時代から競争社会の風潮を弱め、ゆとり教育という風に舵を切りることにより、日本社会全体として多様性を広め格差社会を抑えていこうという方針でした。

 しかしそれが現在裏目に出ました。

 上記の苅谷さんの記事によると、

 本来はより主体的に発言し合うことによって意見の自由を尊重しあうことを目的としていても、日本では、ただでさえ「同調圧力」が強いです。特に学校という場は強く、先生が求める方向や、多くの生徒の「空気」を読んで積極的に発言する生徒が「主体的」と評価されるの時代になりました。「忖度(そんたく)する主体性」

 と言われています。

 また、加えて子供の数が減って、人間関係のチャンネルが失われたということもあるかもしれません。

 そうした教育を受けた世代は、競争するということや一人抜け出るということに後ろめたい気持ちをもち、まぁ周りが貧しいなら自分も貧しくて当然だよね、ということで暗黙の平等意識を持つようになったのです。

 それが約20年以上行われてきた結果、日本は経済的にもアメリカや中国とますます離されて後進国となっていきました。

 つまり何が言いたいかというと、日本という国の中で多様性を認めることができる人口が減ってきているのではないかということです。

 そうすると、当然として多様性を提供する映画はますますヒットしなくなるし、一方で画一的なわかりやすい映画はヒットしやすくなるという傾向があるのです。誰かにわかりやすく、理解できるような映画とも言えるかもしれません。

 そして、最近の『TikTok』や『Instagram』、『twitter』などのSNSが普及するにつれてますますこの傾向は助長化されていると思います。例えば、TikTokなどでは、流行りのものをみんなでやろう!!と人気なものはロングテールで流行る傾向にあり、一方で、マイナーなものはそうそう日の目を見ないというような風潮となっており顕著です。

 ミニシアターブームと呼ばれた時代からずいぶん時代の変化が起こってきました。それはかなり昔のことだったのかもしれません。

5 多様性の幅広さ

 先ほど画一性と多様性の比較をしましたが、実は少し複雑です。画一性が高い映画としても人気なハリウッド映画にも多くの多様性を含んでいます。

 例えば、人種です。

 日本だと日本人という1種の民族が中心なので、通常の映画の中に出てくる役者は日本人ばかりです。

 一方でアメリカ(ハリウッド映画)では、白人や黒人、ラテン系、そしてアジア系の人など多種多様な人物が出てきます。そのため彼らが話すだけでも彼らのバックグラウンドが大きく異なるので、非常に多くの価値観が発生します。そのため、彼らの価値観を描くだけで、感情以外にも多くの多様性を生み出すことができます。

  例えば、「アベンジャーズ」「スーサイド・スクワット」「007」などの映画をイメージしてください。ある種ストーリー(目的遂行のために戦う)という点においては、画一的に見えるもしれません。

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 そこに、人種問題、格差社会や性的差別といった社会問題をバックグランドに置くことによりよりそうした意識を持った人たちに共感を生み出しています。そうすることによって間口を広げ、拒否されない作品作りを行なっているのではないかと思います。

 「アベンジャーズ」は世界中のあらゆるところが舞台になり、白人もいれば黒人もおり、男女入り混じり、ましてや動物や宇宙生物までいたりします。そして、ネタバレにはなりますが、人口が半分に減ったりと社会問題要素をしっかりと根底に入れています。つまり、ストーリーは誰にでも受け入れやすい画一的な要素でありながら、所々多様性も入れることにより様々な人に受け入れやすいようにしています。

 多様性ということで、フランス映画を見ていきます。フランスは映画は芸術であるという側面が非常に強く、ストーリーの画一性よりも比較的多様性に富む、言い換えれば問題意識の高い作品が多いです。

 フランスといえば、三大国際映画祭の一つカンヌ国際映画祭があります。その大賞(=パルム・ドール)を受賞したフランス映画では、

「ディーパンの闘い」(TOHOシネマズシャンテ)
「アデル、ブルーは熱い色」(新宿バルト9、Bunkamuraル・シネマほかで公開)
「パリ20区、僕たちのクラス」

などがあります。

 なお、日本での公開劇場をみると比較的小規模でありフランスが発信する多様性はなかなか受け入れられていないことが伺えます。

例えば、「ディーパンの闘い」の作品の説明を読むと、

「内戦下にあるスリランカからフランスに渡るため、偽装家族となった元兵士ディーパンと女と少女の3人は、パリ郊外の集合団地でささやかな幸せを手に入れようとしていた。しかしその矢先、3人は新たな暴力に見舞われてしまう。人種や宗教、移民問題に揺れるヨーロッパ社会を背景に、暴力や戦いを捨て、愛や家族の絆を求めた人々を描いた人間ドラマ。」

 とても複雑そうです・・これは単にドラマだけではなくて、色々な価値観が織り交ぜられています。

 なお、フランスでは、差別という要素は非常に大きなポイントとなっていそうです。

 ちなみに、カンヌで脚本賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」の話に戻ると、多少ネタバレにはなりますが、映画の中には様々な立場の人が出てきます。それは、日本人だけでなく、韓国人などのアジア系人種の人が多く出たり、また障害者の人なども。こうした多様性がフランスで評価されるポイントとなっているのかもしれません。

 以降余談ですが、そんな中で、アメリカ映画の求める画一性(世界が受け入れられる)とフランス映画の提供する(多様性の尊重)要素を両方とも満たすような映画が近年現れました。

 それは「パラサイト 半地下の家族」です。

 「パラサイト」はフランスのカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したばかりでなく、アメリカのアカデミー賞でもグランプリ(作品賞)を受賞しました。つまり、フランス社会、アメリカ社会両方において画一性・多様性あふれる素晴らしい作品であることを証明しました。また日本でも大ヒットしました。

 ここにはバラエティに富んだ主人公たちの人物描写(自分だったらどうするのだろうということを多く思わせる)格差社会描写(富と貧困)が含まれます。そして、富と貧困も紙一重であるということも伝えます。もちろん、隠れた半地下設定による複雑性などストーリーも予想外の展開がどんどん起こっていき非常にスリルがあります。そして、その中でも『貧しい中でも成り上がりを目指して生きる』というわかりやすい画一性の要素も含んでいます。

 日本でヒットを推進した要因の一つには、登場する人種が韓国人だけというのがあるのかもと思います。それにより日本のドラマと同じような感覚で見ることができたのかもしれません。

 なお、補足を加えると近年のアカデミー賞の受賞傾向が変わったこともあります。アカデミー賞も多様性を意識するように変化してきており、審査員も様々な人種の方がいるそうです。そうした流れの恩恵を「パラサイト」は受けたのだと思います。当時の対抗馬は「1917 命をかけた伝令」でしたので。

 また、昨年のアカデミー賞作品賞はアジア人監督のクロエ・ジャオ監督が制作したアメリカのノマドの人々をドキュメンタリータッチに描く「ノマドランド」でした。そうしたこともアカデミー賞が変わってきていることを感じさせます。

おわりに

 多様性を尊重する社会でありながら結局は数値が評価されるということから色々考えさせられました。

 例えば、多様性を尊重するフランスでは、映画というのものは芸術であると考えられています。そしてそれは文化を育てるものであると。そのため、興行収入は大事ですが、そこだけに重きを置いているわけではありません。

 そして、国全体がそうした文化を応援するために助成金システムをしっかり作り、様々な映画を生み出せる土壌を作っています。

 一方でハリウッドは全世界でヒットを飛ばしてはいますが、近年は人種がたくさん出てきたりとテーマが多かったりとかなり複雑化しているなと感じます。例えば、最近の映画の「フリー・ガイ」は、ゲーム設定の映画ですが、様々な国の人が出てきます(もちろん日本も出てきます)。

 日本でハリウッド映画がヒットしにくくなった要因の仮説の一つとしては、本来画一性が高くわかりやすく楽しめた映画であったのに、近年の多様性の拡大によって・・・複雑になりついていけなくなった、ということがあるかもしれません。

 だからこそ、日本映画の同じ人種が出て、同じゴールに向かって何か物事をなす方が、わかりやすい映画(画一性)として見やすく好まれるのかもしれません。

 最後に、自分としての意見としては、映画には様々な種類があり、それをどのように観るかということについての正解はないと思います。そのため多様性あふれる映画は非常に大事だと思います。

 しかし、その一方で多くの人は、それを面白かった、つまらなかっという評価で判断していきます。そして、興行収入などの数値やFilmarksのような映画レビューサイトの数値で判断を助長します。

 単に映画といっても様々な側面があり、こういう視点で見れば面白い!というものもたくさんあります。例えば、初対面のでの印象はまずまずだったけど、じわじわハマってくるというような感じです。またその時、その時代性でも映画を見る印象は変わります。「東京物語」を10代で観ても理解し難いですが、大人になって、親になるとその面白さがわかってくるかもしれません。

 だからこそ、多様性を尊重する映画を提供する映画館(ミニシアター)は日本人が多様性という理解・文化を深めるための大事な場所であり、そうした発信の一つの起点となっているのではないかなと思いました。

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