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わたしとマリと、白い都のヤスミンカ

コロナウイルスによるアジア人差別の思い出

「白い靄に包まれた都市は、折から差し込んできた陽の光を受けてキラキラと輝いていました。その美しさに、歴戦の猛者たちも、しばし息を呑んで見惚れたと伝えられています。」
「こうしてこの都市は、『白い都』と呼ばれるようになったのです。」

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

これは「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」という本に収録されている、「白い都のヤスミンカ」の冒頭だ。セルビアの首都ベオグラードは、「白い(ベオ)都市(グラード)」を意味している。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」は、著者である米原万里さんの子ども時代を記したエッセイだ。米原万里さんは、父親が国際共産主義誌の編集局に勤めていた関係で、小学校時代(1960年~1964年)をチェコの在プラハ・ソビエト学校で学んでいた。

「白い都のヤスミンカ」は、主人公である著者マリとユーゴスラビア人であるヤスミンカの物語だ。ヤスミンカはマリのクラスの転校生で、全ての科目を完璧にこなす優等生。クラスメイトから一目置かれる存在だったが、常に冷静でちょっと嘲笑するかのような雰囲気を持ち、少し近づきにくい存在だった。マリはヤスミンカに対して好意を寄せつつもうまく距離を詰められないでいた。そんなある時、マリは街でヤスミンカと遭遇し、そのままヤスミンカの家へ招かれることになる。ヤスミンカもまたマリに惹かれていたのだ。「学校通うの辛くない?」とマリに問うヤスミンカは、マリも自分と同じ種類の孤独を抱えていると言った。

この「孤独」の正体を理解するには歴史的背景を知る必要がある。本章の舞台は1963年だ。この年、部分的核実験禁止条約が米英ソらにより調印され、発効された。この条約は、地下核実験の余地を残しており、地下核実験の技術を持たない中仏は反発し、調印しなかった。以前より対立していたソ連と中国の関係が、これを機に表面化した。そして日本共産党は、部分的核実験禁止条約には反対の立場だったので、中国派とみなされていた。一方ユーゴスラビアも、ソ連のやり方に反し独自の社会主義路線をとっていたため、厳しく非難されていた。つまり日本とユーゴスラビアは、ソ連から非難される立場にあった。日本人であるマリとユーゴスラビア人であるヤスミンカは、立場が異なるとはいえ、ソビエト学校に通うことの行き苦しさを共有していた。それが「同じ種類の孤独」だったのだ。 

このとき以来結ばれたマリとヤスミンカの絆は、とても硬いものだった。しかしマリが日本へ帰国し、新しい生活に追われているうちにヤスミンカとの連絡も絶え絶えになり、ついには途絶えてしまった。心の片隅ではいつもヤスミンカのことを気にかけてはいるものの、本気で探すことはなかった。しかし1991年にあの凄惨なユーゴスラビア紛争が勃発し、ヤスミンカを本格的に探し始めた。

セルビアを中心とするユーゴスラビアは、6つの共和国からなる連邦国家であったが、1991年スロベニアとクロアチアが独立を宣言したことをきっかけに、解体が始まった。しかし共和国のほとんどが内部に少数民族を含んでおり、問題が複雑化した。特にボスニア・ヘルツェゴビナは最も複雑な民族構成を持っており、独立反対のセルビア人勢力と、独立賛成のクロアチア人及びボスニア・ムスリム人勢力が激しく対立し、ボスニア内戦は凄惨を極めた。特にセルビア人勢力による他民族に対する虐殺・民族浄化などの残虐行為は激しく報道された。

ヤスミンカが民族紛争の戦火に巻き込まれたかもしれない、そう思うといてもたってもいられなくなったマリは、休暇を確保し1995年にユーゴスラビア連邦へ旅立った。わかっているのは名前だけという状況で、一人の人物を探し出すのは無謀とも言えるが、なんとマリはヤスミンカと再会することができるのだった。

中学時代の読書感想文をきっかけに読み始めた「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」は、私の愛読書となり東欧諸国に興味を持つきっかけとなった。東欧諸国をめぐる旅をしたいと思ったのも、やはりこの本の影響だ。ユーゴスラビアを構成する国々や、マリの過ごしたプラハを訪れたいと思い、バックパックを掴んで旅を始めた。

私が旅を始めたのは2020年1月だった。初めて東京で新型コロナウイルスの感染者が報道されたのが1月15日で、まだ世間的にも、「新型コロナウイルスか~、なんか大変そうだね~」くらいの雰囲気だった。自分自身含め多くの人が生活に大きな影響を及ぼすものになるとは考えておらず、私は旅をスタートさせた。日本を発って2週間ほどは、新型コロナウイルスの影響を受けることはあまりなかった。状況が変わり始めたのは2月の中旬ほどからだった。周囲の視線がどこか厳しい気がするのだ。気のせいだと思うようにしていたが、クロアチアのスプリトを歩いているときに、軽蔑の眼差しで「Chineise」と言われた。あれは「コロナウイルスをもっている中国人」という意図だったと確信している。これを皮切りに、「Chinise」「Corona virus」と叫ばれたり、すれ違いざまに口を覆われるようになった。私は、相手を傷つけることを目的としたこれほどまでに悪意に満ちた行為を、今まで経験したことがなかった。クロアチアのあとはボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れたが、多くの人、特にクソガ…子供が、私を見ては笑ったり罵ったりしてきた(一方でとても親切にしてくれた人ももちろんいて、その人達の優しさは一生忘れない)。ボスニア・ヘルツェゴヴィナからセルビアへ向かうバスでは、越境の際のパスポートコントロールで、中国人だけが防護服を着た職員からバスから降ろされて、執拗な身体検査をされていた。あれはただの見せしめに他ならならず、本当に心がえぐられる思いだった。セルビアに到着したときには、心身ともに疲れ果てていた。差別の恐怖で普通のレストランにも入れず、アジア人の安心感を求めて中華料理店ばかり探していた。

つらい思いをしても、ベオグラードのカレメグダン公園は絶対に訪れると決めていた。ここは再会したマリとヤスミンカが訪れた公園でもある。要塞跡地の公園で、ドナウ川とサバ川が合流する地点にある。私が訪れた日は幸運にも晴天で、その雄大な要塞の姿を見ることができた。この公園でマリとヤスミンカに思いを馳せながら、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」のページをめくった。

ソ連共産党と日本共産党の対立が激しくなっても、在プラハ・ソビエト学校の当局と保護者たちは、学校に通うマリに最大限の配慮をしてくれた。ソ連と日本の間に問題は一切ないという振りをしてくれていた手前、マリも気にしている素振りを見せることはできなかった。

「いつの間にか、私は些細なことをいちいち気にかける神経質で傷つきやすい人間になっていた。」

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

最初の差別を自覚して以降、私を見る視線すべてに悪意を感じており、私も些細なことをいちいち気にかける神経質で傷つきやすい人間になっていた。差別が本当に恐ろしいのは、相手に差別の意図がない場合でもこちらが差別と受け取ってしまい、自ら差別を再生産することだ。もちろんこの再生産にも被差別側に責任はない。差別という悪意は、無防備な状態で受け取るにはあまりにも醜悪なのだ。こちらが差別の可能性を予測していないと心が死んでしまう。時空を超えてマリと私の心は重なっていた。私の心はマリと共にあった。

ボスニア内戦は民族同士の争いだった。少し前まで同じ「国民」だったはずなのに、民族が異なるという理由で殺し合いに発展してしまう。だから民族感情は、友人関係も破壊した。以前は友人だった人々も、内戦を境に突然敵となった。ヤスミンカの学生時代から親友だった友人も、民族が異なるという理由だけでヤスミンカと絶縁した。少し前まで一緒に働いていたにも関わらず、だ。

「マリ、私、空気になりたい」
「誰にも気付かれない、見えない存在になりたい」

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

もちろん、もちろん私とヤスミンカを取り囲む環境は全く違う。私はヤスミンカのように戦火に巻き込まれてはいないし、命の危険もない。しかし、私はヤスミンカに自分を重ねずにはいられなかった。見知らぬ人からでも民族を理由に傷つけられると、辛い。親しい友人からとなるとなおさらだろう。ヤスミンカは身も心も引き裂かれる思いだったはずだ。誰にも気づかれない存在になりたいと願いたくもなるだろう。ヤスミンカは自分の愛する人に傷つけられ、さらに命の危険にもさらされていたのだ。それがどれほど残酷なことか、今の私にはわかると思った。

マリとヤスミンカはどんな気持ちでカレメグダン公園を訪れただろう。再会の喜びとともに、凄惨な民族紛争への複雑な思いも抱いていたのだろう。コロナウイルスによるアジア人差別も、地球規模の民族同士の対立だ。結局、世界はあの頃から何一つとして変わっていないんだ。むき出しの悪意を良い経験だったとは言いたくない。しかし、セルビアを、カレメグダン公園を少しでもヤスミンカの経験に寄り添いながら歩いたことで、差別で私達を傷つけようとした人たちに一矢報いる事ができたのかもしれない。

カレメグダン公園を訪れたことで少し元気が出た。とにかく、せっかくベオグラードまで来ているのだから、美味しいものを食べて行きたい場所へ行こうと決意し、公園をあとにした。振り返って仰ぎ見たカレメグダン公園は、太陽の光を受けて白くキラキラと輝いていた。「白い都」を確かにそこに見た。

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