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「ゴミをまたがない人」になってみた

小学生の頃に所属していたチームスポーツの部活ではさまざまな教訓を得た。


スポーツの技術はもちろん、小学生だということもあって、挨拶、掃除、礼儀などこの社会で生きていくために必要な基礎的なマナーを教えてくれた気がする。


目上の方には敬語を使う。監督やコーチだけでなく他の先生方や父母の方に対してもきちんと挨拶をする。


それらが大事らしいとは分かっていながらも小学生の私にはとりあえずやるくらいの気持ちでしかなかった。


その中でも私があまり理解できなかったが、大学生になった今でも覚えている言葉が、


「ゴミをまたがない人になりなさい」


という教え。何度も言われたわけではなかったが、この言葉も何か大事なメッセージを伝えているらしかった。当時の私には掃除に関する名言なのだろうくらいの認識だったが…。


だから、監督やコーチ、チームメイトがいる前ではゴミが落ちてたら拾っていたが、次第に気づいたとしても「誰かがやるだろう」という気持ちが強くなり落ちているゴミに気付いてないフリをしていた。



・・・



時が過ぎていくにつれこの言葉は私の頭の中で薄れていったのだが、落ちているゴミに気づいていないふりをする自分に気付くたびに思い出す。


「ゴミをまたがない人になりなさい」


そんな中、最近違う場面でこの言葉を思い出すことがあった。



・・・



コロナの広まりによって帰宅後の手洗いうがいを意識することが増えたなあと思いながら玄関のドアを開け洗面台へと向かう。蛇口をひねると私を待っていたかのように勢いよく水が溢れ出してくる。


少しずつ暖かくなってきたからか冷たい水は気持ちがいいなと感じるようになってきたことを嬉しく思いながらプッシュ型の手洗い石鹸に手をかける。


出ない。


こんなタイミングで容器の中にハンドソープが入っていなかったのだ。詰め替えはおそらくあるのだが、手間がかかるし面倒くさい。それに家族の誰かがやってくれるだろうと思い、キッチンに移動して手を洗いうがいを済ませた。


夕食の時に妹が、


「誰か洗面台のハンドソープ詰め替えてくれた?」

との問いかけに対して父が

「やっておいたよ」


との一言。やっぱり私が変えなくても誰かが変えてくれると思った私の考えは間違っていなかったのだ。そういった得をした気持ちが私の心を支配するのかと思っていたのだが、なぜか急に罪悪感がやってきて一気に私の心を支配してしまったのだ。


いきなりの出来事で自分の気持ちがよく分からなかった。とりあえず一連の流れをまとめてみると、

楽をしたいという気持ちがあり、見て見ぬ振りをした。その結果思っていた通りに楽ができた。でも罪悪感に苛まれた。


その時あの言葉が私の脳裏をよぎった。


「ゴミをまたがない人になりなさい」


あの頃コーチが私たちに伝えようとしていたメッセージがやっと分かったような気がした。ゴミをまたがない人とは言葉通りゴミをまたがないだけでなく、ほとんどの人が気づくがやろうとしない小さな行動であると気がついた。


これに気づいたことはいいのだが、「面倒くさいことをやる」という事実には変わりないので私の中で何かが大きく変わるとは思わなかった。


しかし今起こった出来事は自分がまたいだゴミを誰かが拾ってくれた姿を見て心がモヤモヤしたということ。つまり心の奥では私もゴミをまたがない人になりたいと思ってるのではないかというポジティブな勘違いをしたので、


「ゴミをまたがない人になってみよう」


と突然思い立った。誰かに宣言したわけでもないのでいつでも辞めれるだろうという軽い気持ちだったので始められたのかもしれない。


私の定義では「ゴミをまたがない人」は「ほとんどの人が気づくがやろうとしない小さな行動」である。


この定義のもとわたしが取り組んだ行動を少し書き出してみる。

風で倒れた小さな植木鉢を元に戻す
お風呂場の髪の毛のかたまりを捨てる
飼っているペットのフンを片付ける
ウォーターサーバーの水がなくなっていたから新しい水を補充する
洗面台の汚れを拭き取る
洗濯カゴに入ってない汚れ物を洗濯カゴに入れる
キッチンの野菜のかけらを片付ける
トイレとキッチンのタオルを変える


振り返ってみても、私がやらなくても誰かがやっていただろうと思う。

それでも「ゴミをまたがない人」になる前となった後では変わったところもある。

ゴミをまたがないことが面倒くさいと思わなくなった。
逆にやらないともやもやする気持ちもある。
損すると思わないようになった。
余計に細かいことに気付くようになった。



本当に私がやっていることは小さなことなので誰からも褒められることはないし、肩書きが増えることもなければ、儲かることもない。特に心が優しくなるということでもない。それでも「ゴミをまたがない人」が損だという感情は今のところない。(他の人にゴミを拾えと命令されたなら話は変わるかもしれないが)


何か小さなことを発見した時に、今までだと

発見→面倒くさい→誰かやるだろう→無視

という流れだったが、今は

発見→「ゴミをまたがない人」という自覚→行動


というように面倒くさいという感情の前に「ゴミをまたがない人」であるという気持ちが出てくることによって簡単に行動できるようになった。


本当に小さいことなのでやってみれば面倒くさいとはあまり思わない。時間も労力もかからない。それでもやる前は面倒くさそうに見えるし見返りもないのでやるメリットを感じられないからやってこなかったのかもしれない。



あの日コーチが言っていた「ゴミをまたがない人になりなさい」という教訓は、チームスポーツだからこそ大事だったと感じた。それでもスポーツだけでなく、自分が何かのチームの一員である時、そのチームが大きければ大きいほど、人が多ければ多いほど、「誰かがやってくれそう」と思う機会は増えるものだ。自分がやる必要性も責任感もあまり感じることはできない。


でも組織のみんなが「誰かがやってくれるだろう」と思っていては誰もやらないのだろう。


別に世界を変えるような大きな活動を行うわけでも、新しい事業をスタートするわけでもない。ただ落ちているゴミに気づきゴミ箱に捨てる。こんな簡単で誰にでも出来そうなことほど出来ないのだなあと感じた。



褒められるわけでも肩書きが増えるわけでも儲かるわけでもない。とにかく周りからの何かを期待して行うことではないと思う。


今はまだ意識しているから「ゴミをまたがない人」でいられると思うのだがこれからは無意識にそうなれたらいいな。



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