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感想を伝えるということ


小中学生の頃は感想を書くのが苦手だった記憶がある。何を書けばいいのか分からないので定型分的な形で誰のどの作品に対しても同じようなことを書いていた。


感想を送ることが好きになった直接の要因は分からないけど、おそらくnoteを書き始めて感情や思考を言葉にする楽しさに気がついたからかもしれない。振り返ってみると最近は特に感想を伝えることが増えた気がしている。


noteを読んだりしずかなインターネットを読んだりラジオを聴いたりした時に感想を伝えることもある。身近な人からおすすめされた音楽や映画や本を楽しんだ後に感想を伝えることもある。そして最近は人生で初めてファンレターも送った!!!


noteの記事に直接コメントをすることもあれば、noteの記事として感想をひたすら書くこともある。


前者の場合は直接その時の気持ちをその時の熱量で相手に伝えたいと感じた時で、後者の場合は、感想が長くなりすぎて相手に読んでいただくのが申し訳ないけど、それでも書き残しておきたいと思う時に感想を書いている。


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スタンプを送信したり、スキしたり、いいねしたりと簡単に相手にリアクションを送れるようになったことによって感想を送ることは面倒くさいものと認識されるのかもしれない。


確かにリアクションに比べると感想を送ることは手順が多いので面倒くさい。しかし、感想を振り返って、言葉にして、文章を書いて、送る、という一連の行為が私はとても好きだ。


もちろん文章を送る先には相手がいるので単に思ったことや考えたことをぶつければいいというわけではない。


それに感想は基本的に送りつける行為だと思うので相手にとって不快にならないように文章の推敲を重ねるのだけど、感想は生ものであると思っているので、出来る限り熱があるうちに言葉にして送りたいと考えている。だからそのバランスが難しい。推敲することによって読みやすい文章になっていくのだろうけどそこに帯びていた熱が失われていく感覚がある。


あとは推敲を重ねるたびに高尚なものを書かねばという考えも生まれる。でも感想は必ずしも高尚なものでなくてもいいよね。


すごい!面白い!楽しい!幸せ!最高!


というシンプルな言葉だって熱量の高い感想として相手に届くことだってあると思う。


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さっきも書いたけど、感想を伝える時には相手がいる。もちろんだけど相手がいる。私の感想が作者の意図と違っていたらどうしようとか、他の人から陳腐な感想だと思われたらどうしようとか、傷つけてしまったらどうしようとか、面倒くさいと思われたらどうしようとか考えてしまう。


相手にとっては迷惑なんじゃないかと考えたり、返信を考えさせるのが申し訳ないと思ったりして感想を伝えきれないことも多い。


それでも書き手としてnoteを始めてから感想をいただくことが創作活動を続けるモチベーションの源になったり、(承認欲求が満たされたり)、幸せな気持ちになったりする経験を重ねていくうちに作者に感想を伝えることは読者が思っているよりも大きな意味があるんじゃないかと思い始めた。


そのため、私が送る感想もその作者の方々にとって創作活動を続ける一つのモチベーションになるような意味を持つものになるのではないかと考えたりもする。


この前noteにも書いたけど、私たちは無自覚なだけで、実際は小さく誰かに救われることの連続で人生は成り立っているんじゃないかと考えている。


その連続性の中には、救われるだけではなく誰かの人生を小さく救うことも含まれていると思う。でもこれはさらに自覚するのが難しいと感じるので、相手に感謝や想いを伝える行為は大切なのではないかと考えている。


とはいえ、これが私のエゴの押し付けになったら嫌だなあと感じてしまう気持ちもある。だから感想を伝えてくれて嬉しい!と言ってくださった方には感想をたくさん送ってしまう!!その方々もしそれが社交辞令だったらごめんなさい…。


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