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感情は言語化できるのか?


昨日投稿したこの記事に対するふらりさんからのコメントへの返信の内容をもう少し深掘りして書いた記事です。


このnoteでは「思考や感情を言語化する」ことを目標に掲げていて簡単ではないながらも頭に浮かんでくる思考やこころに残る感情をなんとか言葉にしようとしています。


言葉にすることで私自身のことをもっと知ることができるのではないかという淡い希望を抱いています。


それでも最近、「感情を言語化する」ということに関してある疑問が浮かんできます。


それは感情を言語化した時点でもうそれは感情ではないのではないかという疑問です。


もう少し詳しく書くと、感情を言語化する過程で思考を挟むことによって感情を言語化しているというよりかは思考を言語化していると言った方が正しいのではないかという疑問です。


       感情→思考→言語


私は昨日ふらりさんからコメントをいただいて私はこころのうごきを感じました。そして私はその感情を「嬉しい」という言葉に当てはめて表現しました。この時点で「嬉しい」という言葉は感情ではなく思考を表しているのではないかと思いました。


とは思いつつも「嬉しい」という感情はこれまでたくさん使ってきた表現でもあるので考えるというよりかは直感的に「嬉しい」という言葉に結びついているような気がします。


この意味では思考を挟むことなく感情を言葉で表していると言えそうです。


         感情→言語


しかし私が言語化したいと思っている感情はただ単に嬉しいとか悲しいとか汎用性が高く一言で表せるようなものではありません。


テストでいい点数を取っても嬉しいしありがとうと言われても嬉しいという感情が湧き出てきます。


このふたつの状況で湧き出た感情をどちらも「嬉しい」という言葉で表現しますが、このときに感じたこころの動きは全く同じであるとは思えません。


こう考えたときにこの感情をさらに深掘りしてみようと考えます。そうです考えるのです。


先程のふらりさんの例に戻ると、「ふらりさんからコメントをもらって共感してくれたから嬉しい」とさらに深掘りした場合でもこれは感情というよりは思考を言語化しているように思えます。


       感情→思考→言語


感情という抽象的なものを具体的に表そうと思えば思うほど感情から遠ざかっていく気もします。感情と言語の間に多くの思考を挟むからです。


   感情→思考→思考→思考→思考→言語


だから嬉しいときに笑ったり楽しいときにはしゃいだり怒っているときには叫んだりする方が言語よりも感情を表現できているのかなと考えることもあります。


他にも感情のままに音を奏でてみたり絵を描いてみることのほうが言語よりも感情を表現できるのかもと考えることもあります。


目に見えなくて形のない抽象的な感情を言葉で具体的に表そうとするほど違和感を覚えることもあります。抽象を抽象で表すほうが広い観点から物事を見ているので共通点が多いように見えるのだと思います。


それでも私はこころの動きを観察してそれを言葉にしてみたい。ほかの誰に伝えるでもなくどこかで発表するでもないかもしれないけどもっと私の感情を詳しく知りたい。







ただそれだけです。




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