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立法学入門コラム 立法と映画

 法学における立法への関心の低さは、立法学の最初に必ずと言ってよいほど言われることだが、映画においても、司法に比べて立法については扱われることが少ない。もちろん、国会などの議会が舞台になることはある。しかし、立法ということを扱っているというとあまり思い浮かばない。アメリカ映画では、「スミス都へ行く」(フランク・キャプラ監督、1939)とか「キューティー・ブロンド ハッピーMAX」(チャールズ・ハーマン=ワームフェルド監督、2003)とか、日本映画では「国会へ行こう」(市倉治雄監督、1993)といったところだろうか。このほか、たぶん日本未公開で、未見のものではあるが、歌うカウボーイ、ジーン・オートリー主演のRovin' Tumbleweeds〔ジョージ・シャーマン監督、1939〕がある。この映画については、落ち着いたら、DVDでも取り寄せて観てみようと思っている
 したがって、立法を描くドラマということでは、「スミス都へ行く」が、一番に挙げられることになる。この映画では、ジェームス・スチュアート演じる新人の上院議員であるジェファーソン・スミスが法律案を提出しようとする。その際、ジーン・アーサー演じる秘書のサンダースが立法過程の説明をするシーンもある。しかし、この映画でのクライマックスは、スミス上院議員が先任の議員の策謀で不正を働いたとの嫌疑をかけられ議員除名の決議がされそうになるのを防ごうと、スミス上院議員がフィリバスター(filibuster 議事妨害、議事妨害演説)として演説を行うシーンである。このシーンは、J・スチュアートの熱演とあいまって有名であり、上院のサイトでのフィリバスターの歴史を概観する説明の中でも、次のように書かれている。

アメリカ人にとって最も馴染み深いタイプのフィリバスターは、少人数の議員或いは、例えばフランク・キャプラの1939年の映画「スミス都へ行く」で架空の上院議員ジェファーソン・スミスが行ったフィリバスターのような、一人の議員によるマラソン演説である。

 なお、上院では歴史のハイライトも掲載しており、フィリバスターについては、実際に行われた有名なフィリバスターについての記事のほか、上院議員などを招いて行われた「スミス都へ行く」のワシントンでのワールド・プレミア(1939年10月17日)についての記事(”Mr. Smith” goes to Washington)もある。
 最近でも、フィリバスターは、議論となっており、この映画に言及することもある。例えば、Carolyn Kelley, Filibuster or bust? - Kenneth Mack on the origins and history of a controversial political tool, Harvard Law Today, 10/3/2021は、法制史の教授であるケネス・マックにフィリバスターの起源や歴史などについてインタビューしたものであるが、冒頭にこの映画でのフィリバスターの場面の写真を掲げている。もっとも、この写真に添えられたキャプションでは、映画に出てくるような「演説によるフィリバスターtalking filibuster」は、今日ではほとんど用いられないとしている。
 「スミス都に行く」については、わが国での上映という点でも、歴史的な意味を持つ。1939年製作の映画であるが、我が国では、1941年、というより昭和16年という方がいいのかもしれないが、つまり、真珠湾攻撃、日米開戦の年の秋に公開されその真珠湾攻撃の12月8日にも上映されていたのである。半藤一利が、その日のこととして、作家の野口冨士男が、対米開戦の報を聞いて、スミス議員の秘書を演じたジーン・アーサーも見納めになるだろうと新宿昭和館に「スミス都へ行く」を観に行ったことを書いている(半藤一利『[真珠湾]の日』(文春文庫、文藝春秋社、2003)474〜475頁)。

 作家野口富士男は三十歳、対米開戦の報にひそかに思った。「これでスクリーンの恋人ジーン・アーサーにもう会えなくなる。お別れをしておこう」。それですでに何度も観た映画であったが、昭和館の「スミス都へ行く」をもういっぺん観ておこうと、かれは新宿へ出かけてきた。やはり客は十人足らずしかいなかった。みんな寒そうに襟を立ててシーンとして観入っている。
 映画はアメリカの民主主義のすばらしさを描いたものであるが、ストーリーはどうでもよかった。政界のからくりをとんと存じない田舎ものの青年上院議員ジェイムス・スチュアートが、古狸議員の策謀にうまうまと乗せられて、悪徳議員にしたてられて意気消沈、理想と現実の相剋に悩み、議員を辞めようとする。そのかれを、秘書のジーン・アーサーが励ますのである。
「この世のすばらしさは、マヌケといわれた人びとの信念の賜物たまものなのよ」
 野口は、このせりふに感動してぽろぽろと涙をこぼした。昭和館の右隣のカフェからはラジオ放送と、軍艦マーチが間断なく鳴り響いてきて、しばしばスクリーンの声をかき消した。野口は戦後に回想している。
「私は軍艦マーチのあいだから、なんとかジーン・アーサーの声を聞き取ろうとした。そして、声がきこえない時には彼女の顔だけを食い入るようにみつめて、戦争の中から戦争と違うものを懸命になってもとめていたのであった」
 たしかに外は、ジーン・アーサーのせりふとは違い、すばらしいことのなくなった、殺伐たる非常時となっている。

 この野口富士男の回想というのは、野口の小説「その日私は」のことであろう。なお、この小説に触れつつ、朝日新聞の天声人語が日米開戦80年について書いている(朝日新聞2021年12月7日朝刊1面)。
 一方、「キューティー・ブロンド ハッピーMax」も、アメリカ連邦議会が舞台となっている。こちらは、下院が舞台になっている。ただ、この映画でも、テレビの画面に「スミス都へ行く」が流れているシーンがあることからも分かるように、「スミス都へ行く」を意識している。あらすじは、主人公のエル・ウッズ(リーズ・ウィザースプーン)が動物実験反対の法律を作ろうと、ロー・スクールの先輩である下院議員の日本で言う秘書となり、法律を成立させようと奮闘する姿を描く。この映画では、その提案する法案が委員会では取り上げられないことになり、本会議に持ち込むためにディスチャージ(discharge 委員会審議免除)を勝ち取ろうとするのが見せ場となっている。
 「国会に行こう」は、吉田栄作が主演(国会を舞台にした映画の主演の俳優の名前としては、できすぎのような気もする。)の映画であるが、政治改革のための法案が道具立てになっている。
 映画と国会・議会ということでは、新型コロナ感染症をめぐる昨今の状況からすると、災害と国会・議会という観点から、「ゴジラ」と「スター・ウォーズ」の二つの映画シリーズが気になる。
 まず、「ゴジラ」である。シリーズ第一作の「ゴジラ」(本田猪四郎監督、1954)と最新作(第29作)である「シン・ゴジラ」(庵野秀明監督、2016)との間での国会の扱いについての違いに考えさせられる。「ゴジラ」では、国会議事堂がゴジラに破壊されるシーンがしっかり出てくる。ゴジラの大きさをイメージさせるのに国会議事堂が使われたという面もあるのだろうと思う。しかし、そればかりでなく、この映画では国会の中での審議も描かれている。大戸島に調査に行った山根博士(志村喬)の公聴会のシーンがある。また、国民がパニックになることを恐れてゴジラの情報を公表しないようにするという動きに対し、それを女性議員(菅井きん)が批判するシーンもあり、今からみると、ある意味まぶしく見える。一方、「シン・ゴジラ」では、もはや国会議事堂は東京の風景の一部という以上のものではなくなっている。これは、CG技術の向上やゴジラの大きさの対比のための建築物が他に多くなったことがあるので、国会の地位の低下を示しているわけではないと思う。しかし、「シン・ゴジラ」では、内閣、自衛隊、霞が関での動きが描かれるのに対し、そのような意味で国会は出てこない。一方で、この映画での政府の対応や自衛隊の活動について様々なことが言われているにもかかわらず、この映画で国会の活動が扱われていないことについては、問題にもなっていない。もちろん、映画としてそれが問題ということではない。しかし、例えば石動竜仁ほか『シン・ゴジラ 政府・自衛隊事態対処研究』(ホビージャパン、2017)では、行政法学者の横田明美も加わり、この映画での内閣・省庁や自衛隊の対応について論じているが、同じような意味で国会について論じられることはないし、映画での国会の扱い方についても言及はないのである。もっとも、「ゴジラ」について、憲法学者の水島朝穂が『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014)で論じているが、そこでも国会議事堂の破壊については触れているが、国会の活動について論じてはいない。このコロナ禍での状況下で、災害時の国会のあり方について問題となっている状況にあって、この点は考えさせられるところがある。
 スター・ウォーズについては、銀河共和国の元老院議会の機能不全が帝国への移行へとつながることについて、民主主義論として問題となるということがある。キャス・R・サンスティーン(山形浩生訳)『スター・ウォーズによると世界は』(早川書房、2017)でも取り上げられている。しかし、ここで問題としたいのは、エピソードⅠ〜Ⅲに出てくる元老院議会の開催形式である。銀河の各星々から議員が集まるという対面のものであることである。コロナ禍にあって、人が集まることを避けるため、オンラインでの議会開催が可能か議論になっている現状からすると、この点は、興味深い。光年単位で離れていても時差なしの通信・通話ができていることやジェダイ評議会ではリモート出席をするジェダイがいるのだから、銀河共和国でリモート議会も技術的に困難ではないと思う。やはり、議員が集合することに意味があるということなのだろうか。国会のリモート会議については、憲法上可能かどうかの議論がある。たとえば、「「オンライン国会」はありか、なしか 論点は「出席」の解釈 憲法学者2氏に聞く」(東京新聞2020年5月10日朝刊)で、推進派の宍戸常寿教授と慎重派の長谷部恭男教授の意見が出ている。このほか、小林祐紀「(3)リモート国会―物理的な出席は憲法が求めるものなのか」大林啓吾編『コロナの憲法学』(弘文堂、2021)所収、植松健一「ドイツ連邦議会の定足数と「出席」:政党分極化・コロナ危機・ヴァーチャル議会」立命館法学393・394号130頁以下(2021)、同「オンライン議会」法学教室502号41頁以下(2022)もある。そして、令和4(2022)年1月17日から始まった第208回国会(常会)では、衆参の憲法審査会において、オンラインでの国会審議について議論がなされている(第208回国会衆議院憲法審査会議録第2号(令和4年2月17日)、第3号(同月24日)、第4号(同年3月3日)、第208回国会参議院憲法審査会会議録第2号(同年4月6日)、第3号(同月13日)、第4号(同月27日))。
〔補足〕この後、河西孝生「オンライン審議に関する検討課題と衆議院における議論 《特集》国会実務と憲法—「憲法改革」の核心【オンライン審議】」法律時報95巻5号6頁以下(2023)、赤坂幸一「憲法問題としてのオンライン国会—研究者側の応答 《特集》国会実務と憲法—「憲法改革」の核心【オンライン審議】」法律時報95巻5 号10頁以下(2023)が出ている。


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