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ぐるぐる話:第29話【衝撃の呟き】 @1605


部屋に入ってきた仲居は、この楓屋に到着したときからずっと木綿子たちの世話をしてくれているすみれだった。

柚が溺れた露天風呂にすみれが駆けつけたとき、小さな木の実をつけたように真っ赤なペディキュアが塗られていた足を、いまは真っ白な足袋がシワひとつない滑らかさでピーンと張って覆い隠している。


畳のへりを上手にかわしながら、大きなお盆から次々に料理を卓の上に並べるすみれのやわらかな動きを目にして、杏はこころが洗われるような気分を楽しみながらうっとりしていた。


あまり見られては、すみれだって動きずらいだろう・・・そう案じた結果、じっとすみれに見入っていたい気持ちを押しのけ、杏の視線はすみれとスマホを忙しくいったりきたり。半ば憧れのような眩しいような気持ちですみれの着物姿を盗み見しながら、両手で忙しくスマホを操っていたその時・・・


「え?」


と思わず声に出してしまうようなある人の呟きが目の奥に突進してきた。


塩原の楓屋のすみれ上物。5万払えばほぼ奴隷。超がつくほどいい女だった。身分証明と女将へのチップで別室に通してもらえます。


その文章とともに貼り付けてある写真には、紛れもなく今ここにいるすみれの後姿が・・・紺色の着物、山吹色の裏無しの帯、茜色の帯締めと帯揚げ、半夜会巻きにしたうなじの後れ毛は艶っぽさとあどけなさ・・・間違いないすみれだった。


書いてあることを俄かには信じられなかった。どういうこと?私と同じ歳くらいのこのすみれが、5万もらって客の相手をしてるっていうこと?うそだ!そんなことあるはずがない・・・こんなにもたおやかなすみれが、そんな汚らわしいことをするはずがない・・・。


でも、これこそ、ひと目みた時から、すみれに感じた印象の奥深くに横たわっていた悲哀なのかもしれない・・・とも思う。


もしもこの話が本当なら、きっと何かワケがあるはずだ。もしかしたら、すごく悪い奴等に脅されているのかもしれない。もしそうなら、そんな地獄のようなところから、このすみれを助け出してあげたい・・・スマホを持つ手にじっとりと汗をにじませ杏は考える。


自分は今いったい何をどうすればいいのだろうか・・・どうすることが一番すみれのためになるのだろうか・・・。


頭の中に、いっぺんに色々な考えが浮かんでは消える・・・けれど、どの考えもきちんとした纏まりにはならず、単語だけが縦横無尽好き勝手に杏の頭のなかを飛び回っている。無理だ・・・とてもひとりでは抱えきれない。ひとりでは到底も到底も解決することなどできないだろう。木綿子に話をして、力を借りるよりほか道はない・・・。

大小さまざま色とりどりの皿に、美しく盛られた料理を無感動に眺めながら、すみれは自分の無力さを感じた。


と同時に、こんな時こそ麻子がいてくれたら・・・柚と麻子の不在をこころから心細く思う杏だった。


卓のそばでは料理をすべてならべ終えたすみれが、ひとつひとつの皿の前に細い指先を添えてはその料理について話をしていた。


食前酒・・・りんごの果実酒
箸染・・・青菜のお浸し
前菜・・・旬野菜の盛り合わせ、冬林檎の雲掛、梅ムース、菊蕪、鮎甘露煮
煮物椀・・・柚子、揚げ玄米麹、すかし大根、梅人参、
造里・・・鮮魚の盛り合わせ
蓋物・・・胡麻よごし、吉野葛
強肴・・・料理長おまかせの岩手牛刺身
酢の物・・・柚子釜ジュレかけ
食事・・・季節の釜飯
留椀・・・袱紗味噌仕立て
香の物・・・季節の三種盛り
水菓子・・・麹の甘酒ムース、季節の果物


卓の上にごっそりと並んだ料理は、ふだんの元気な杏なら間違いなく頬をゆるませながらあっという間にすべてたいらげてしまっただろう。

でも、今さっき信じ難い呟きを見たことで激しく動揺している杏は、目の前の料理に箸をつけることもできないほど、切なく苦しい、なんとも言えない気持ちで、コロコロと鈴が鳴るような声で喋り続けるするすみれの話を上の空で聞いてた。



【 第30話へつづく 】


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