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ひとり歩く夏の夜

 一日中暑い日が続いている。それでも夜は太陽の熱がないだけましで、目的なしのぶらぶら歩きをする気分になれる。

 少し重めの花の香りをつける。あまり拡散しない香り。私の周りに沈んだ甘い匂いがただよう。自分のための香りだから、これくらいが良いのだ。

 ドアを開けると、熟しすぎた桃に似た色の月が見えた。

 湿気があるので、快適とは言えない。少し歩くとうっすら汗ばむのがわかる。風もなくまといつくような空気には、まだ昼間の名残がある。襟をぱたぱた動かすと、花の匂いがわずかにこぼれた。

 車が多く走る大通りを歩き、滑り台とブランコだけある公園を過ぎ、大きな看板のある回転寿司屋の前を通った。食事時はやや過ぎていたが、まだまだにぎやかな様子だった。

 コンビニ帰りとおぼしき男女がやってくる。彼らの持つ袋を見て、私は冷えたビール缶を想像し、汗をかいた冷たい缶を、頬に押し当てたことを思い出す。もしくは個包装のアイスキャンデー。溶けちゃうよ、と笑っていたあの日。

 自転車に乗った親子連れがやってくる。子供のころの私は、虫取り網を片手に運転するといった、よろしくない乗り方をしていた。この子はちゃんと両手でハンドルを持ち、一定のリズムでペダルをこいでいる。子供の被るヘルメットや自転車のボディが、外灯の光をうけてまたたいた。

 向こうからランナーがやってくる。私のゆっくりした歩みとは逆に、軽快なペースで走ってくる。右手の懐中電灯がピカピカ光り、流れ星のように過ぎ去っていく。

 私の目は、彼の背中を追いかける。光はどんどん遠くなっていく。

 見ず知らずの、今日はじめて会った人だというのに、なぜだか置いて行かれたような気がしていた。

 歩くのをやめて、空を仰いだ。頭上の月は大きいけれども、遠くて手が届かない。

 まったく、私はひとりぼっちなのだった。

 相変わらず風もなく、重くぬるい空気が私を包んでいる。私は再び歩き出す。さっきよりは少し歩みを速めて。動かなければ、自分のための花の匂いも意味がないのだ。

 大きな桃が食べたい。丸ごと一個。ちょっと贅沢だが、それくらいは許されるのではないだろうか。

#8月31日の夜に

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