#2 イチロー日本プロ野球選手最後の試合
「イチローならアメリカでも活躍するから心配しないで」
という言葉に「そうじゃないんです」と言わず、泣きながらうなずいた
イチローさんの現役引退試合から3年が経って、3つの「最後の試合」を思い出していた。これはそのひとつ、2000年10月13日、イチローさんの日本プロ野球選手としての最後の試合で、隣で観戦されていたおば様にかけて頂いたひと言である。場所はグリーンスタジアム神戸(当時)、何度考えても一番美しい球場だ
その年イチローさんはついに打率4割かというぐらい絶好調だったが、8月の終わりだったと思うが、脇腹を痛めて、以降の試合を欠場する
最終成績は.387のパ歴代最高打率で、7年連続首位打者
その頃のイチローさんは、なんだか楽しくなさそうだった
チームの成績は低迷し、イチロー選手がどんなに打っても、観客はまばらだった。オリックスだけでなく、その頃のパ・リーグ自体が不人気だった。私にとってガラガラの球場は見やすくて良かったのだけど。だいたい西武ドームのライトスタンドで51番の背中を眺めていた。贅沢!
イチローさんの本当の気持ちは、ちゃんと取材された記事を読むべきだし、勝手にそんなことを思うのは、大変イチローさんに失礼なのだけれど、私は「楽しくなさそう」だと思っていた
「楽しい」というのはどういうことなのか。それは問わないでほしい。なんせ私も若かった(当時21歳)。今、年齢と経験を重ねた後に使えるようになった言葉を書き加えるのは、少し違う気がするので
なので、メジャー移籍という噂についても、楽しくやれるならそうするべきだと思っていた。「活躍できるか」という野球の実力に関することについて、疑ったり心配することはなかった。完璧に信じていた
信者なのか
10月12日、ポスティングでのメジャー移籍が発表された。同時に、明日13日がイチロー選手の日本最後の試合だという発表だった。そうすべきだと思っていたくせに、胸がえぐられるようだった。非常に自分勝手だ
ニュースはアルバイト先で知った。当時ラジオ局で野球中継制作に関わるアルバイトをしていたから、いち早く知ることが出来たのだと思う。帰り道、仲間に「明日神戸に行く」と言ったが、驚かれなかった。もしかして誰か翌日のシフトを代わってくださったのだろうか
親はこの酔狂な娘をどう思っていたのだろうか。大学の授業は当たり前のようにサボったと思われるが、そういうことは何も言われなかった。母は、帰りに神戸で美味しいパンを買ってきてと言っていた気がする。仕事帰りのコンビニのように軽く
とにかく、翌日ひとりで神戸に向かった
座席はバックネット裏しか空いていなかった。大学生にとって、すでにここまでなかなかの出費だったので、5500円のチケットに一瞬たじろいだが、買うしかなかった(今なら1ミリもたじろがない。勤労万歳)
ここからの私の行動がよくわからないし、怖い
記録を残そうと、スコアブックをつけ始めたのである
いくらスマートフォンがなく、デジカメが高価だった時代だったとはいえ、写真を撮りなさいよと言いたい。写ルンです、で。アルバイトのクセだとしてもおかしい。自分が気持ち悪い
そういったわけで、この試合の写真が一枚もない
当然周りの人からしてもおかしな存在だったであろう
ひとりで、バックネット裏で、スコアブックをつけている若い女性。何者なのか色々質問されたが、途中から放っておいてくれた。感謝します
イチロー選手は、最終回に守備固めで出てきた。大声援。育ててきたんだという自負と、旅立ちを激励するような、とても温度感のある声援だった
私は涙でボロボロだった。試合後に手を振るイチロー選手を見ながら、仰木監督と握手する姿を見ながら、泣きに泣いた。その時にかけて頂いたのが、冒頭の「イチローならアメリカでも活躍するから心配しないで」だった。ずっとイチロー選手を見守ってきた、神戸の方ならではの優しい言葉だと思う
私が泣いていたのは、ただ「もう見られない」という喪失感、自分本位の涙だった。だから神戸の方の優しい言葉にハッとし、うなずくことしか出来なかった
イチローさんはシアトルに旅立っていった
「もう見られない」と思ったイチロー選手を、アメリカまでもひとりで見に行くようになるとは、その時は考えもしなかった
後日談
その当時、お付き合いするまであと半歩、という微妙な関係の男友達がいた。野球が大好きで、度々一緒に野球観戦をしていたこともあり、「言ってくれたら一緒に行ったのに」と帰ってきてから言われた
ただ、ありがとうと言った
イチローさんで頭がいっぱいで、あなたのことは全く思い浮かばなかった、とはもちろん言わなかった
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