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3月11日

東日本大震災の時、津波が来て、原発が破裂して、みな被災地に応援の声を送った。もちろん声だけではない。尊い行為だと思う。しかし、僕は積極的にそうはできなかった。できなかった自分を正当化するつもりはない。しかし、あの時は二の足を踏んだのだ。実際そこにいた人の痛みを自分はどれ程分かっているのか、分かっているふりをしたくなかった。
しかし、今でも自問自答を繰り返す。
兎に角、差し当たって何かできる事があったのではないか?

この話題になると胸が痛む。

被災地の芸術家を支援しようという運動があった。切手ほどの小品ではあるが、東北の作家と全国各地の有志の作品を併せて展覧会を開催、売上を寄付するというものだったと記憶している。力及ばずながらせめてと思い、何年かの間参加したが、芸術家ばかり特別扱いしているようで釈然としないものがあった。実際には逆で、芸術家を支援する運動が無かったから始まった企画だったが、何故か逆差別のように感じてしまったのだ。創作活動ができなくなったのはとても辛いことだ。でもそれは芸術家ばかりのことだろうか? 普通の生活ができなくなった人達はどうだ? そこにいた人は皆同じではないのか?
痛みを分かち合う事とは? 
答えはいまだ得られていない。

地震の時、僕は江の島にいた。たまさかそうしたくて珍しく外に出たのが、正にあの日、あの時刻だった。
展望灯台のある庭園で写真を撮っていると足元がまるで小舟に乗っているように大きく揺れた。見上げると傍の照明も灯台も大きく揺れていた。展望灯台の外階段を急いで降りる人が思いのほかたくさんいて驚いた。
島の出口の橋まで下りてみたが、地震のあと津波警報が出て一時橋を渡ることができなくなった。避難のため島の高いところにある庭園に戻ると、同じようにそこに集まる大勢の人達がいた。観光客ばかりの中庭に陰り始める陽射し。その日、まさか大地震に遭遇すると誰が予測できただろうか。
3時間ほどが過ぎ、幸いにも夕刻には島から出られ僕は江ノ電の駅に向かったが、不思議なことに、島から出るまでの参道や、島を出て駅に至るまでの商店街でも電気が点き、テレビの音が聞こえていた気がする。テレビの津波のニュースに驚き話す地元の人達の声が聞こえていたと思う。
江の島駅につくと電車は止まっていた。車内には足止めを余儀なくされた人影。どうして鎌倉の自宅に戻ろうと思案して電話すると、奇跡的にかみさんにつながった。曰く、車で迎えに行くから海岸は歩かずに丘に向かえ。
途中のファミレスで落ち合おうと歩き出したころにはもう日も暮れ、いつの間にか周囲には誰もいなかった。龍口寺から片瀬山を越えて西鎌倉へ抜ける道は街灯も点いておらず、時折自動車がすぐ傍を走り抜けるが、過ぎてしまうと辺りは真っ暗で、どこを歩いているのかもわからない状態だった。後日道を辿るとそこは崖っぷちで、ガードレールの外を歩いていたことが分かった。
首尾よく落ち合うことができ、帰宅できたことは幸いだった。

数年後、家族旅行で東松島に立ち寄った。
町の活気は戻りつつある様であったし、島巡りの遊覧船にも乗った。

妙にだだっ広い海辺の土地。
整地のため、大きなベルトコンベアで瓦礫を運んでいたのをあちこちで見た。
コンクリートの廃屋。ずいぶん前に打ち捨てられた様子、そのときはそう思って通り過ぎた。
しかし、小さな砂浜を歩いて足元に門柱と思しき礎石を見つけたとき、その連なる石の列が一体何なのか理解し、身震いが来た。

 ここに誰か生活していたんだ、そう思い至り涙が滲んだ。


それ以来、数年の間だが夏の帰省の度に東北のあちこちに立ち寄った。
祭とこけし、震災の跡に出会う旅だった。痛々しい処も見たがその他は素朴で穏やかで、美味しい料理、美しい風景がそこにはあった。

そこを尋ねること。それくらいしか、出来ることはないような気がした。

或る午後 cm,30x30. 高知麻紙に岩彩. 2011. Ryo NAKANISHI
    江の島、中津宮からサムエル・コッキング苑に至る道の風景。
避難途中に撮影した写真を基に制作した。

タイトル作品 : 朝のカフェ(部分)cm.18x18. キャンヴァスに油彩. 2018. Ryo NAKANISHI






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