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おままごと


♡目次

はじめに 〇〇ごっこ
その1  友達ごっこ
その2  人見知りごっこ
その3  健康ごっこ
その4  ニャンコちゃんごっこ
おわりに  おままごと

はじめに  〇〇ごっこ


〜ごっこ。
幼い頃、みんな1度は経験があるのではないだろうか。

例えば誰かと家族になったり
スーパーヒーローになったり
大好きなキャラクターになったり

何かに「なる」ことで
新しい自分になること。
あるいは自分とは全く異なるものになること。

それを楽しんでいたのではないかと思う。

夢の無い言い方をする。

何れにしろそれは「うそ」にすぎないのだ。

ごっこあそびは「なりきり」で
「ほんもの」の自分では決してないからだ。

そしてそれは私の人生の一部を形成していた。

自分を守るためにそうして生きてきていた。

その1  友達ごっこ

小学生の頃

名前がとても似ていると運命的な出会いを果たした子がいた。

その子の大好きな一輪車に
私もいつの日か興味を持っていて

毎日練習して

はじめて乗れたとき
その子は私以上に喜んで
泣きながらぎゅっと抱きしめてくれた。

お誕生日には
繋げるとハートの形になるキーホルダーを
プレゼントしてくれた。

会う度に繋げるのが私たちの日課になった。



ある日、その子に新しい友達ができた。

私が話しかけても見向きもしない。

必死になったとき、
ふと浮かんだのは

ハートのキーホルダーだった。

遠くなっていく背中に近づこうともがいて
「繋げたい。」と伝えたとき、

やっとこっちを向いてくれた。

一瞬、うれしかったのに

「あーどっかいっちゃった。」
その言葉で心にぽかんと穴が空いた。

いつか私を思い出してくれるようにと
卒業文集に「一輪車」について綴った。


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高校生の頃

新たにやりたいことを見つけて
胸を張る中で

「もう二度とひとりぼっちにはなりたくない。」という想いが募った。

ひとりぼっちを見つけて声をかけた。

ガードが固くて
心開くのにかなり時間がかかったけど

手を繋いでくれるほどに
仲良しになれた。


すごく繊細な子。
周りを人一倍気にして
教室に入るのもお店に入るのも
怖いと思ってしまう瞬間があるような

そんなときにはどこか私を頼りにしてくれてるんだとうれしかった。


ある日から私の中にある疑問が浮かんだ。

「都合がいい友達になっているのではないか」と。

その子は私が苦手とする部分を見つけては
罰ゲームを作り
何度もフラペチーノを奢らさせるようになった。

やがてきつい言葉を浴びせられ、日に日にエスカレートしていった。

強くものを言えない私だからこそ
余計言われるがまま関係を続けた。


やがて限界がきたときに
無理やり別れを告げた。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

友達ってなんだろう。

どこからが友達だろう。



中学生の頃

こんな風に言ったことがあった。

「同じクラスになったんだからみーんなお友達だよ。」と。

あの頃は堂々と胸を張っていたけど

そんなこと絶対ないと今は思う。


どこからが「友達」なんて
哲学的すぎる答えは出せない。


それでもあんな風にお別れをしてしまった
2人は結局「友達」ではなかったのだろう。



高校の頃のあの子は
無理やり友達になって無理やり別れた相手。

強引にしてしまったからうまくいかなかったのかな。

2人にもいいところはたくさんあったこと。

それは仲良かったからこそみえていた部分だ。


今でも2人のことをどうしても嫌いにはなれない。

当時の私にとっては大切な「友達」だったんだ。


友達ごっこ  だとしても

2人がいなきゃ今の私はきっといなかった。





そう割り切っているのも 「つもり」

友達ごっこだったあの日々の殻をやぶるときはくるのだろうか。


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その2  人見知りごっこ

幼い頃、私は自由奔放すぎた。

親が目を離した隙にどこにでも行っちゃう。

毎日が大冒険で

迷子センターにはよくお世話になったそうな。

そういえば、毎日誰かと仲良くなってたな。

人が大好きで
たくさん挨拶し、ニコニコしながらプライベートを大公開しては
親によく止められた。

その度に近所の人にふふふと笑われて
ほっぺを真っ赤にしながら
再びお話をして
うっかりプライベートを話して

親に「コラッ」って言われる時間が
とても好きだった。

変わり者だったから
周りの同い年くらいの子には嫌われて

仲間はずれにされることも少なくなかったっけな。

いつからだろう。

人見知りごっこ  をするようになってしまった。

周りを気にするようになった時期に
必要じゃない我慢をするようになった。

そうしている内に

あるときは学校で
クラスメイトとふつうに会話するのも恥ずかしくてできなかった。

あるときは下を向いて歩かないと
恥ずかしかった。

そんな私を変える為に
「社交的(?)ごっこ」をして

幼少期の私に近づいた気がする。

結局 「私」人が好き。人と話すのが大好き。

それなのに今でもどこか
人見知りごっこは続いている。

店員さんと話すとき、
ピアノのコンクールで舞台に立つよりも緊張する。冗談抜きで。

場所によっては引っ込んでしまって
うまく自分を表現できない。

気づいていないフリをしたけど

きっと
もう「人見知りごっこ」はおわっている。

これはほんものの「人見知り」なんだ。

私自身が周りに踊らされて作った肩書きが

すみついて離れない。


ねぇ幼い私。

あなたのおかげで今でも続いている
素敵な関係がたくさんあるんだ。

すごく幸せです。ありがとう。



あの頃、ありのままだった私は
もういません。


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その3  健康ごっこ


「はい、元気です。」

そんな出席確認の方法が苦手だった。

体調が悪くてもみんなの前で
言えるわけないじゃん。と

涙が出そうになるのを堪えて
笑顔を作っていた。




小学1年生の頃までは
正直だった。

感覚過敏があり、
毎日どこか違和感を感じていた私は

「はい。少ししんどいです。」
とよく言っていた。

恥ずかしさとほんとのことを言いたい気持ち
が葛藤してヘラヘラしたまま放った言葉。

そのせいで仮病を疑われたのが事の発端だったのだろう。

家では4人きょうだいの長女の私。

変なプライドで
「元気だよ。」と嘘をつくことが多かった。


そんな嘘にもなれ、
あたりまえになっていた。




だが、最近「健康ごっこ」の殻を半分破りかけている。

大学生になってからやっとだ。



何人か 理解者ができた。

ほっとして体の空気が抜けちゃうかと思った。









それでも 私のプライドが消えるわけじゃない。

殻の半分で 「健康ごっこ」は継続する。

すでにこれが私の生きやすい生き方。


それを不幸だとは思わない。


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その4  ニャンコちゃんごっこ

デートの日です。

メイクにひと手間、髪の毛を巻き、お気に入りの服を身に包んで胸を弾ませて家を出る。

今日も相手に合わせる前提で。

それが私の中での当たり前だから
もうそれで良かった。


「ここに行きたいんだけど!」
「じゃ、行こ。」

「次ここ行きたい〜」
「あ、おっけーい。」

「お昼はここにしようか。」
「わ、いいねぇ」



「ねぇ、たんぽぽはやりたいことないの??」


                          あ…



そっか。相手はやっぱり疑問に思うんだ。

私が全く自分の意見を言わないことに。


でも、言うことは私にとっての負担だよ

そう思ってた。




そういえば、グループワークをするときも
こんなだった。

「こういう方向で行きたいんだけどたんぽぽさんはどうかな?」

「あーみんながそうするならそれがいいと思う。」


え、なんで。口が勝手に動いた。

胸まで違う意見が出かかったのに。

ヘラヘラニコニコして
なんも考えてないような素振りを見せてる。自然と。

周りにもそう思われて
「意見があったのに…」と思う気持ちは
グッと引っ込めて笑ってる。

どうして言えないんだろう。


「もっと押し切ってみてよ。」
そう言われることもある。

それができたら苦労しないよ。





生きている内で誰しも1度は経験あるんじゃない?

「猫かぶり」

私もそう。


ずっとニャンコちゃんのフリしてんだ。


…人間に戻らなければ。



わがままになりたい。

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おわりに  おままごと

幼い頃、どうしてあんなにおままごとが好きだったんだろう

考えていたらひとつの答えが浮かび上がった。

憧れの気持ち

自分ではないものがかっこよく見えていたから だろうな







なんて書いたけど
幼い私はきっとそんな風に理由を述べない。

なんとなくなんだ。なんとなく。

おままごとが好き。

その前提に 演じたい があって

  表現をすることがなんとなく大好きだったんだ。


だけど私が人生を通じて演じてきた〇〇ごっこは好きでやっているわけじゃなかった。


だから今となっては一々理由を答えて
納得して1ミリでも安心したいと思っているんだ。


その 〇〇ごっこ の前提は全く別物…


信じる ってことだと思う。

私が友達と笑っていたかったのも周りと話せなくなっちゃった時期も元気って言いたかったのも猫をかぶっていたのも

何か 信じたいものがあったから。

信じられるものを探していたから。

最近 よく考えてしまう。
「信じる」は簡単に口にすべきでないのではないのだろうかと。

私は 「素をさらけだせる」って思った相手に出会えたとき 信じる なんてよく口にした。


ほんとに全てをさらけだせるのか。

100%信じることに繋がるのか。

そこを考えだすとキリがない。

それは勘違いとか相手のせいとかじゃなくて

こう言うことがプレッシャーになる場合もあるのではないかと。

「裏切り」が存在するのは「信じる」ことの裏返しで
勝手に無意識に相手を落としてしまう可能性がある。

私も逆に私にとっての正解が誰かにとっての不正解で
「裏切る」 と思われていたからこその
ごっこあそびがたくさん存在したのだろうと思う。

信じる = 価値観のおしつけ
になってしまう場合もあるんだ。

だからこれも 信用ごっこ だったのではないかと言われたら首を縦に振ってしまうかもしれない。


信じる は結局安心するための道具だ。
 

それでも「素」が出せるほど心を開いてる相手がいることって

なんとなく拠り所ができているんだろうな。

少しづつ 大人への道を歩いてる証拠なんだろうな。



おままごと。

きっとみんなそうやってうまいこと生きてるんだと思う。

そうやって、胸を張るための第1歩

新たな憧れのための優しい嘘。


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ちょこっと話(?)

この文章には入りきらなかった想いを綴ります。
私は疾患をいくつか持っていてそれが私の中での「あたりまえ」です。
そんなあたりまえを綴るためにはじめたのがnoteでした。
しかし、今回ははじめて「なるべく疾患に触れず」一般の方からみた「あたりまえ」で経験しそうなものを自分の過去と照らし合わせながら綴りました。
疾患があるからこそ疾患の辛さを私はたくさん知っていますが、それだけが全てではないと思います。
疾患がなく普通に何気なく生きていても「生きる」ということは辛いことの連続なのかもしれないと思うのです。
そんなときに なんとなく ふとこの「おままごと」に触れた人がどこか自分に重ねて安心できるように、例え「嘘つき」でもそれは悪いことではなく「生き方」なんだということをこの文章を通じて伝えたいです。
ぐだぐだなまとめになってしまいましたが、

このnoteが小さな道標になりますように。


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