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陶酔して生きたら酔いつぶれた

今日も生きていますか、

私はなんとか生きています。


常日頃からうまく生きれないことに悩み、生きるコツを探している。

私から見たうまく生きる人は、何かに没頭し、陶酔している人だ。

生きるってなんだ、自分とは何者だ、そう考えている人に幸せそうな人はいない。

仕事や、恋愛や、遊び、なにかしらに没頭している人は幸せそうである。少なくとも人生に立ち止まらず、進み続けている。

どうやったら人生上手くいくかと悩む私も、化粧が上手くいくだけで心が満ち足りてしまう。そんなものなのだろう。

仕事で評価された、好きな人と出かける約束をした、友達と買い物に行く予定がある、それらの積み重ねで幸せを感じるのだ。

ちっぽけなことで落ち込んだり、他人と競う人の対して、しょうもないと思うときがある。しかし、彼らはそれに没頭しており、没頭しているからこそ幸せを感じているのだろう。友達が高級な腕時計をつけていることに強く嫉妬する人は、一生懸命働いたお金で高級バッグを買うことで、この上ない満足感と幸せを感じる。

そうゆうことなんだろうと、現在の私は考える。



さて、そんな私の最近の悩みを吐露させてほしい。

自分の存在を疑ってならない。

これが悩みである。1つの事象に感動したり、笑ったり、喜んだりするとき、自分の存在を感じる。それは、同じ事象でも、感じ方は人それぞれだからである。

感情の持ち主は、自分しかいない。

しかし、社会に合わせて様々な道化を演じてきたことで、今になって本当の自分がわからなくなってしまった。

私はこういう人です。という文言でさえ、伝える人によって言い方を選んでいる。自分に自分を紹介するのは、最も難しい。

自分にとっての理想像でさえ、ばらばらなのだ。

天真爛漫で愛嬌のある人、奥ゆかしく上品な人、泣いて笑ってまっすぐ努力を続ける人、思慮深く自分を律している人、なりたい自分はたくさんいる。

それらの理想像に言動を寄せたり、他人からそうみられるよう努力する。


では、自分はどんな人なのだろう。

真っ先に見られたいイメージが浮かび、あたかも自分の真の姿のように語ろうとしてしまう。自分に対してさえ、素直でないなぁ。

人通り探してみたが、どれもなりたい自分への途中経過の自分しかみつからない。

1つ挙げるならば、このようにちまちまと意味のないことを考え続ける性格であるということだ。なにかと真理をみつけたがるやっかい者である。

しかし、この自分も近々消えそうな予感がしてならない。社会で生きていく上でもっとも適していない性だからである、無論、これまでも社会に出て他人と関わる際は、このやっかいな性を心の奥底にしまいこんでいた。それを出したり引っ込めたりして、なんとかやってきた。

その切り替えはなかなか負荷がかかるもので、いっそのこと消してしまった方が楽だと思うようになったのである。まさしく社会における役割に没頭し、不必要な思考はなくしてしまえば、幸せになれる。そう思っているのだ。


わかっている。わかっているのだが、どこか空しい。1度消してしまえば、もう取り戻すことはできないと感じる。たとえ無意味でも、日々悩み苦しみ考えてきた、それこそが本当の自分である気がしてならない。すると、その思考を消すことで、本当の自分は消えてなくなってしまうのではないか。

そう考えると、怖くてたまらないのだ。


そして、うまく生きていけない自分も愛しい存在なのだと気づく。

もう少し、このままで生きていけたらいいな。念のため、ややこしい自分をここに残しておく。





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