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『危機の二十年』(E.H.カー著、原彬久訳、岩波文庫)

実際の世界はとても複雑で、一言で「世界は〇〇である」と言い切ることはできないだろう。それはウクライナ情勢に対するインドの姿勢などを想起すれば理解していただけるのではないかと思う。現実世界は非常に複雑であるということを踏まえているため、筆者の主張や見解も明快なものではなく、条件付きのものが多いように思える。

条件付きの主張であるため、そこにわかりづらさ、難解さがつきまとうのも確かなように感じた。しかし、それだけ主張に飛躍がなく、妥当で堅実な見方をしようとしているということで、なるべく正確なことを述べようという誠実な姿勢とも受け止められるのではないかと思う。

司法で解決できない国家間の紛争

中国の覇権主義的な行動だったり、日本の領土をめぐるいざこざだったり、といったことは、しばしば話題になるし、国際司法裁判所での調停?がニュースになることもあるように思う。しかし、国際司法裁判所を通したから綺麗さっぱり問題が解決したということは、私の知る限りない。

その理由は、判断を下した裁判官の選任について、当事国間で揉めるからだという。つまり、当事国双方が中立であると認めるような裁判官など存在しないということだ。それでは、国家間の紛争は、国家という存在があるかぎり、司法で解決することは永久に出来ないだろうと思った。しかし、司法による解決を期待しなくなれば、その先に待っているのは武力による解決ということになるだろう。武力による解決は絶対に認めてはならない一線だろうから、言葉を選ばなければ騙し騙しやっていくしかないのかもしれない。

国家による情報統制

特に戦争中、ラジオや映画などが国家の管理下に置かれるというのはよく知られていることだろう。メディアの統制は、全体主義国家だけでなく民主主義国家でも行われていることと述べられている。日本の報道の自由度ランキングが低下している理由の一端も、自己検閲を促していることに関係があるとされていた。

↓「国境なき記者団」ウェブサイトの日本に関する項目

メディアは国民を統制するために非常に重要な機関である。そのため、国家も無視することができない存在であるという。一方で、メディアの側でも質を担保する努力は必要だと思う。そうしなければ、メディアに対する信頼が低下し、それによってさらに国家からの規制を甘受するような状況になってしまうだろう。そうなると、また国民の信頼を失い、、、、という負のスパイラルに陥っていくと思われる。


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