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教員になるということ

報道やSNSを見るに、教員の世界は慢性的な人手不足の状態となりつつある。長時間労働、支援を要する児童・生徒の増加、保護者からの無理難題、高度化する授業と機材といった問題と教員という仕事にまつわる「悪評」の数々。これらの悪評が、教員採用試験の倍率低下をもたらしている。それが現場の人手不足を加速と離職者の増加を加速させ、人手不足がさらに進む。今はこのような状況ではないかと思われる。

今年度から教員採用試験の試験日程が前倒しされるが、それが受験者数の増加と実際に教職に就く方の増加につながるのか。私はこのシナリオには懐疑的な立場であるが、ひとまずはどのような展開になるのか、様子を見たい。

今の時代に教員になりたいと思うのは、どのような人なのだろうか。大学、大学院と私の周りには教員志望者が一定数おり、そのうちの何人かは実際に教員として、学校で働いている。私の知っている範囲は10人いないくらいだが、その人たちは皆、圧倒的な体力を持った人たちである。今の教職には、体力に自身のある人たちが集まっている。いや、そのような人たちしか残らないと言えるかもしれない。

もちろん、体力に自信のある方が集まることは決して悪いことではないだろう。しかし、学校現場には、体力に自信のない児童生徒も一定数いる。そのような児童生徒に対して、教員は適切な接し方ができるのだろうか。教員が自身の経験の押し付けにならない対応がどこまでできるのだろうか。

「教員が超忙しいことはわかっている。それでも生徒のために頑張る。しょうがない」これは教員となった人が言っていたことで、報道などでも教員がこのようにコメントしていることもある。

「〇〇のために」これは、この発言をした人の使命感を感じさせる言葉である。しかし、これを美談と捉えることは、私にはできない。悲壮感を感じる。

児童生徒にとって教員は、勉強を教えてくれる存在である。しかし、それだけではない。教員は、児童生徒にとって働いている様子を日常的に見られる数少ない存在でもある。児童生徒は、教員の働き方も観察しているはずである。教員が我が身を犠牲にして働いていれば、子供達にもそのような働き方が是として伝わってしまうのではないか。

教員の働き方改革を進めると同時に、教員自らが働き方に対して抱いている意識を変えていくことも必要ではないかと考えている。

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