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歳を重ねるごとに「死にたい」の解像度が悪くなる

死にたいと人生で一度も感じたことない人はこれを読んでも完全に時間の無駄なのでスルーしてもらった方がいいと思います。
感じたことある人もただ私がダラダラ思考をまとめずに書いてるだけで時間の無駄なのでスルーした方がいいとは思います。

小学生からつい二年前くらいまでずっと死について頻繁に考えていた。
あっ別にこれ暗い話ではない(つもり)です。
20代前半までは鬱病だったから希死念慮があったこともあったが、鬱病が寛解した今でも変わらない。
「それは寛解したと言わないだろ」と思われるかもしれないが寛解している、至って元気なので。
鬱病の時は生き続けることが辛いとか、自分は迷惑な存在だとか、そういう理由で希死念慮があったが、
元気まん点食堂な今は、人間は皆お互いに迷惑をかけ合ってるし、存在価値というものは皆にあり、同時に皆にないと思っている。
なぜ今も希死念慮があるかというと死ぬ方がどう考えても合理的だから、ただそれだけ。

でも最近、生きること、死ぬことについて考える機会がすごく減ってしまった。
("しまった"と書くのは、減ったことが私にとってはマイナスなことだから。生死について考える時間は自分と世界の関係性に向き合える大切な時間だと考えている。深夜3-5時あたりに微かに窓から入る外の明かりで薄暗い青色に照らされてる天井を見つめながらあれこれ考える時間ありますよね、あれです。)
しかも、たまに訪れる貴重な考える時間が出来ても、昔よりも思考にモヤがかかっているような、解像度が低すぎてガザガザな画像のような、電波が悪い時の通話のような、そんな歯切れの悪い思考しか出来ない。

20代後半になってから少しずつこれは感じていて、ここ二年で自分を取り巻く環境が比較的安定し、安心感が得られるようになってからより加速した。

昔は洪水のように次々と自分なりの死生観の構造や仕組みを頭の中でコツコツ書き込めたのに、
今はそれが出来ない、出が悪い蛇口みたいにどこかで詰まる感覚。

私はこれを老いだと感じるので非常に悲しくなる。
こうなるのは脳が衰えてきているのもあるだろうし、無意識に日々目の前のことしか考えず希死念慮から意識を逸らし思考に深く潜る頻度が減ったことで一度に潜れる深さが減ってしまったのもあると思う。

昔は目先の楽しみなんて全く楽しみじゃなかった、週末友達と会うからってなんだ、その一瞬だけ比較的マシな時間になるだけで、それが終わればまた地獄じゃないか、と思ってた。
個人的には今でもこれ(どう誤魔化しても結局は辛い現実からは逃れられないこと)こそが真実と言うか、この世の正体だと思っている。
でも最近は「週末友達と会うの楽しみ」とか「今度の旅行楽しみ」とか「ネットで買ったものが届くの楽しみ」とか、一瞬だけ比較的マシになる時間が沢山積み重なって、一瞬楽しくてもどのみち辛い現実が常にそこにあることを忘れつつある。
そして思い出してもまた一瞬だけマシになるイベントが訪れ忘れる。
私は昔からこれを刹那的な生き方と勝手に呼んでるけど、そういう生き方になってきたと感じる。
こんな子供だましみたいな、例えは悪いがヤク中がひたすら麻薬を打ち続けるような形で、恐ろしく辛くて絶望しかないこの世の真実の姿から目を背けるのは本当に嫌で嫌で仕方ない。
この世がどこまでも救いがなくクソでどう足掻いても生きるに値する世の中になることがないという私にとっての事実をずっと念頭に入れておきたい。

でもきっと多くの人はそうではない。
刹那的な生き方をしてみんなこの世のクソさを考えることなく(または忘れて)、大量の「比較的マシな一瞬」の積み重ねで楽しい人生を演出する。
誤魔化しや子供だましであっても、絶え間なく誤魔化し続ければ、一生騙し続ければ、それは誤魔化しや子供だましではなくなりやがてその人にとっての「この世の真実」となる。
それを見ていると、同じ惑星の同じ空間に同じ生物として存在しているのに別の世界線を生きているような感覚になると同時に、いかに自分が社会不適合者か知らされ、やはり死んだ方が合理的なのだと実感する。
なのに、生死についての考えが年々衰えていく。
これ以上衰える前にやはり死んだ方が(ry

(ryってリアルに12年ぶりくらいに使った。


終わり


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