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巌と花

気持ち半分で読んでください。

こんな夢をよく見る。
いや、夢なのか妄想なのか自分でもよくわからないのだけれど、それだと文章を綴る上で勝手が悪いので、代名詞として「夢」とそれを呼ぶことにします。意識と眠りのあいだ、まどろみ、半睡のなか、その夢は映ります。
まぶたの裏の白黒のうねりの世界で、はじめは、木炭で描きなぐった、野獣のようなものが悠然といるのです。ふたつの大きな角を持ち、まことにどうも汚らしい、苔の生えた闘牛のような、へんな生き物です。すると今度はその生き物がいくつも出てきて、戦争をします。すべてオスです。争いは瞬く間に混沌を巻き起こし、野獣たちの濁流が滔々とうねり、猛勢一挙に地を飲み込み、木端微塵に野を荒らし尽くすのです。敵も味方もありません。ただただ目に見えるものすべてを殴り、怒り狂っている感じです。
野獣たちの混沌がピークに達したとき、野獣と野獣のその隙間、足元から、真っ白な光が差し込み、清流のように清く広がっていきます。その中心には、線の細い、繊細な鉛筆で描いたような真っ白な白百合が一輪咲いているのです。野獣たちは争う気をなくし、白百合の光り咲くその姿や鼻骨の髄までこたえる香りにウットリとして、ただ呆然とするのです。そして、特に大くて汚く醜い野獣が、その白百合を周りの土ごと持ち上げ、白百合と見つめあうのです。戦争はなくなり、野獣が白百合をガラス細工を扱うように大事にして愛するのです。そして、いつもここで目が覚めるのです。

芸術というのは、なんだか、二項対立のその間にいつもあるような気がします。具象と抽象。光と影。必然と偶然。秩序と混沌。実はその極のどちらにも完全には足を置くことができないのですが、漸近線のように限りなく近づくことができ、どこに点を打ってもいつも両極の性質をはらんでいるのだとおもいます。

芸術というのは、たとえば真っ黒な巌に白百合一輪といったものな気がします。
決して混ざり得ない、別の母体から産み落とされ、別の生を辿ってきたあるふたつが、突如としてぶつかり合い、依り集まって、離れて、また合わさって、融合する。悠然と聳え立つストロングな巌に、痛いほど繊細な白百合が凛と刺さるように咲いている、そんな二項対立こそが、芸術な気がするのです。

対立のない芸術は、芸術とは違うような気がします。それはただ、一方的で利己的な自己主張に過ぎないからです。いや、ほとんどの芸術作品は、鑑賞者からしたら作者の意図なんて完全には汲むことのできない一方的なものなのですが、「それでも...」という心粋の余白を作者が有しているというのが、芸術表現の最たる特徴のひとつだと思うのです。

二項対立を表現するということは、自分という存在を無くすということです。一般によく言われる、「自己表現」だとか「個性」だとかの言葉がありますが、ぼくはそういった言葉が気持ち悪くてどうも見ていられません。自分が関与していない、第三者的な立場で二項対立を描く。そのためにまず個性を無くす。そういった気概が大事な気がするのです。
個性を無くすところから、芸術ははじまると思うのです。

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