見出し画像

優しくないから

産婦人科病棟の待合室では、ときどき涙目の女がいる。
そういう人にハンカチを差し出したことがある。
本当は、見ず知らずのその女性を抱きしめたかったのだが。
いや、抱きしめられたかったのか。

生と死の、その寿ぎと絶望がこれほど混在するところはない、と。

産婦人科の待合室。
世の中にある残酷な場所のひとつと思う。
いつも思う。
なぜ、せめて、待合室だけでも、産科と婦人科を隔ててくれぬものかと。

そこには、かなりの割合で、優しい家族が登場する。
妊婦につきそった夫と母親、ときに姉妹、ときに上の子供、ときに父親さえも。

一族あげて喜ばしいのはわかる。
心配なのもわかる。
でも。

待合室の椅子には限りがある。

ひとりの妊婦を囲んで、一族の明るい輪がある。
その傍らに、座る場所を得られずに、立って待っている妊婦さんや、顔色の良くない、または泣き出しそうな患者さんの姿がある。

個々の事情は知らない。
でも、病院は本来、病の治療に来るところ。
どこかに痛みを抱えて、必死に立って待っている人がいる。

私は、何十年も通ったが、ほとんどは薬をもらいに来ただけだから、痛くて訪れた人より、当然体調は悪くない。
席を立ち、青い顔をして下腹部に手を当てる人にそこを示す。
涙目の女はすべて過去の自分に重なる。

よく、スマホをかけるふりをして、その場を離れた。
そういうとき、大抵ものすごくむかついている。

夫や母親に付き添われる妊婦さんは、嬉しいだろう。
心強いと思う。

その妊婦さんにとって、夫や母親は、とても優しい。
母親はともかく、夫が仕事を休んでつきそってくれたのだとしたら、その妻にとっては誰かに自慢したいくらい優しい夫なのかもしれない。
いや、いまどきは、それがあたりまえなのか?
そんな光景は、まったく珍しくない。

でも。

身重の妻を労わることに夢中で、他の妊婦さんや、痛みをこらえて立っている患者さんのことは目に入らないとしたら、また気づいてもどうとも感じなかったとしたら、その夫は、本当に優しいのだろうか?

コンカツ中の女性に求める男性の資質を問うと、「優しい人」と言う声が多い。
これは、私たちの頃、いやもっと昔からたぶん変わっていない。

女は、優しい男が好きなのだ。
優しくされたいのだ。

その意味で、妊婦を囲んだ明るい一族の中の夫は、間違いなく、その妻の要望を叶えていると言えるかもしれない。
彼は妻にとって、このうえなく優しい。
だが。

私は、嫉妬があるにせよ、このよその亭主を蹴飛ばしたいと思っていた。

誰にでも優しい人がいる。
自分の妻にも優しいが、よその女性にも優しい。

それはイヤだという妻がいる。
私にだけ優しくしてほしい、という女性だ。
こういう女も、私は蹴飛ばしたいと思っている。

優しさってなんだろう?

もしも、自分の身内にも他人にもすべてに優しいと自他ともに認められるような人がいたとして、その人は本当に優しい人なのか。
意識しないところで、周囲の気づかないところで、その人の存在自体が、誰かの涙を誘っていることはないのか。

足元には踏まれている蟻がいる。
草も根もある。
そういうものすべてを避けては前に進めない。
見ないふりして歩くしかない。

言葉や行動や、存在そのものが、誰かを傷つけているかもしれないといつも恐れている。
恐れながらも「私は優しくないから」という思いが、自分への慰めになっている。

テレビで見る優勝や受賞や偉業の達成にあたって「この喜びを誰に伝えたいか」と問われて「家族に」という答えが好きじゃない。
貧困や病を乗り越えたときに「家族がいたから頑張れた」というコメントもだ。
訊かれたほうは、訊いたほうの期待に応えるべくしてそう言っているのだろう。
だからこの質問自体が嫌いだ。

その言葉を見聞きするたびに「家族のいない人は乗り越えられなくてもしかたがない」と言われている気がする。
家族がいたときも、ずっとそう思ってきた。
こんなコメントをうっかり耳にしたら、死にたくなる人もいるんじゃないか。

でも、感涙を誘う美しくて微笑ましいシーンにケチをつける人はいない。
だから、私もあえてつけはしない。

でも、家族愛とか絆とかのアピールを、世間様ほど「優しさ」とは感じていない。


読んでいただきありがとうございますm(__)m