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【エッセイ】ルーティンと神の話

僕は一人でカラオケに行くと、必ず終盤に歌う曲がある。
バンプオブチキンの「ロストマン」という曲だ。
とは言っても、この曲が十八番(おはこ)というわけではなく、なんなら終盤のため声が出なく音程がガタガタであることも少なくない。
では、なぜそれでも歌うのかというと、好きな曲だという事以外の理由は思い浮かばない。

いわゆるルーティンのようものなのだと思う。

ルーティンと言えば、他にバスケのフリースローを打つ前にも行う。
必ず2回ボールをついて、1回手の中でボールを回してからシュートを打つ。
フリースローの確立はさほど良くなく、これにどれくらい意味があるのかはわからないが、どうしてもやらないと気持ち悪い。
また、このルーティンを1回やってしっくりこない時は、同じ動作をもう一度繰り返す。

これらのルーティンをしなくてもどうという事はないと思う。
でも、しないとなんだか落ち着かなかったり、悪い結果につながった時にルーティンをしなかったせいなんじゃないかと考えてしまうことがある。

なお、僕は宗教を妄信するタイプではない。
一応先祖代々仏教徒ではあるけど、教義なんてきにしたことはないし、あの世があるとは思っていない。

でも例えばお墓にイタズラをするとか、仏壇の前でふざけるとかはしない。それは神やあの世とかを信じてるわけではないけど、先祖、あるいは先人を敬っているからである。
でも本当にそれだけかと言われたら、それもまた違うと思う。

他の人も似た経験があるのではないだろうか。
何かやましい考えが頭をよぎったとき「ご先祖様に合わせる顔がない」とか考えてとどまったり、大事な場面で神のようなものに祈ったりして成功を願ったりする。
ご先祖様に顔を合わせる機会はないし、神は存在していないのにである。

なぜか考えた時、一つの考えに至った。
自分の中にあるボヤっとした大切にしたいこと・信じたいモノが、概念としてすでにある神あるいは先祖といったもので代替しているのかもしれないと。

言葉にできないものを人は認識することができない。
だから、かわりに超常的で目に見えず触れることのできない神や祖先に恥じることのない行いをし、また時に信じることで、そのボヤっとしたものに頼っているのではないだろうか。

ルーティンも同じなのかもしれない。
僕はストレスが溜まって辛くなっ時に一人でカラオケに行く。
そこで最後に「ロストマン」を歌うのは、この歌が心の支えとなったことがあるから、最後に歌うことで切り替えをし、まだ大丈夫と踏ん張るために。
バスケではずっと繰り返してきたこれまでの動作をすることで、これまで練習してきたことを信じるために。

きっと信じるべきものは、いつでも自分の中にあるのだろう。

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