見出し画像

駐在生活の気づき|「いい暮らし」だけでは人は幸せになれない。

シンガポールで駐在をしてる話をすると、いい暮らししてそうだよねとよく言われる。「いい暮らし」って何だろう。シンガポールに来る前、こんな話を聞いた。

シンガポールは清潔だし、治安はいいし、いい国だよね。プールやテニスコートのついたタワーマンションに住んで、週末にはマンションのBBQピットでお肉焼いたりして。タイやインドネシアなどの近隣諸国に気軽に遊びに行けるんだって。素敵な生活だよね!

たしかにそれは本当で、日本で生活していたらできなかった経験をしている。英会話に通ったり、テニスをしたり、マリーナベイサンズを眺めながらランチをしたり、言葉にするととても優雅な生活だ。

ただ、それで日々満足かというとそういうわけでもない。

簡単に日本のテレビを見られない。売っている日本の食材はどれも割高で、日本にいた時より質を落とさざるを得ない。自由な時間がたっぷりあるから映画でも見たいけれど、上映される日本映画はごくわずかで、洋画は日本語字幕なしで見なければならない。漫画も雑誌も2倍くらいの価格で気軽に何冊も買うことができない。

会いたい人に会えない。食べたいものが食べられない。見たいものが見られない。買いたいものが買えない。実際の生活はそんなことの繰り返しだ。
そんな我慢をしながら、私はタワーマンションで暮らし、英会話を習い、テニスをする。

海外生活はとてもちぐはぐだ。
贅沢で優雅な暮らしをしているようで、日々我慢を強いられている。

どちらかしか選べないとしたらどちらを選ぶだろう。
我慢しながらのいい暮らしか、変わり映えしないけれど安定の日常か。

私は、当たり前のことを当たり前にできる日常が欲しい。たとえ、住む部屋が小さなワンルームだろうと、仕事が忙しかろうとそっちの生活がしたい。だって、欲しいものは自分で手に入れればいいのだから。生活のどこをよくしたいか、自分で選んで努力する。求めていない贅沢はいらない。

海外にいると頑張っても日本の当たり前の日常は手に入らない。与えてもらったいい暮らしはあるけれど、そこには穴がある。

あんなところに住みたい、あんな生活がしたい、人はいろいろなことを願う。今の生活にその希望がプラスされたらきっと幸せになれる。でも、今ある何かを失ってその希望を得ても、幸せになれるとは限らない。いい暮らしは日常の上に積み重ねられてこそ意味を成すということに初めて気がついた。

私も東京で一人暮らしをしていたころはいろいろなことを思っていた。困らないけれど贅沢できない暮らし。ワンルームでの生活。節約のためお弁当をつくる生活。つらいと思ったこともある。でも、今ならその生活も愛しく思える。

逆に、日本に戻ればもうできないような生活をしていると思えば、今の生活も愛しく思える。せっかくなら毎日少しでも気持ちは晴れやかな方がいい。だから、なるべくそう思うようにしている。

ただ、シンガポール生活も2年が経ち、今後の生活をどうしたいか考えたら、私の求めるものは日本の日常生活だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?