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地元の都市伝説を追う④〜 天狗と龍

 アルカ神と前回に引き続き諏訪との関わりを深掘りつつ、修験道と龍の関わりを追いました。

諏訪の「鹿」

 前回、諏訪の土着信仰として取り上げた洩矢神について小嶋秋彦氏は以下のように考察されている。

 サンスクリット語の mṛja がその祖語で、「森を歩き回る」を意味し、その同類語 mṛga は「森の獣」で特に「鹿」を表わす。長野県の諏訪郡に接する伊那郡名は、ena(enea) の音写で同じく「鹿」の意味である。
 日本武尊の東征の際、神奈川県の足柄辺りや信濃白鹿を退治したとの物語が語られているが、これらは東国の古代にあった鹿に対する信仰者の集団の象徴で、洩矢神の影響にあった人々と考えることができる。

https://kojimaakihiko.wordpress.com/2021/04/08/工事中第十二章%E3%80%80大国神と大物主神/

 また、『神皇記』によれば

 この建御名方命子孫一族は、鹿に乗り四方諸万国を駆け廻り、戦頭に進む軍大将の家と定めた。稚武主命の子孫一族は、馬に乗って四方之諸万国を掛け廻り、戦頭に先立つ軍大将の家と定めー

『対訳 富士古文書ー徐福が記録した日本の古代』2023/12/15発行 より

とされている事からも、古代の諏訪の神には「鹿」が重要だった事がわかる。
 他方、稚武主(わかたけぬし・稚武彦)命は天太玉の子孫とされているが、天太玉といえば、山梨の鈴鹿神社の祭神のであり忌部氏の祖神だ。
 また、同じ忌部の紀伊忌部讃岐忌部氏の祖神には天道根命(アマノミチネノミコト)が居る。
天道根命は、前回触れた大伴神社の祭神とされ、大伴氏(望月氏)=騎馬民族が納める地であった事から、忌部氏と諏訪の「鹿」との繋がりも見えてくる。

 また、諏訪の洩矢神には、孫の千鹿頭神(チカトノカミ)という「鹿を千頭狩った」ことを名の由来に持つ狩猟の神がいる。
 千鹿頭神は、守矢氏が祀るミシャクジ神との関わりも指摘されており、山梨・埼玉・群馬においてはミシャクジ社が千鹿頭社と重なっており、農耕や火伏せの神格を持つ地域もある。
 この火伏せの神格富士を繋ぐ話において、山梨県上吉田地区に伝わる伝説が興味深い。

 吉田の火祭りは、北口本宮冨士浅間神社諏訪神社の両社のお祭りで、毎年8月26日、27日に行われます。鎮火祭とも呼ばれ、富士山の噴火を鎮めるお祭りで、450年以上の歴史を持ち、国指定重要無形民俗文化財に指定され、日本三奇祭にも数えられます。
 元来、火祭は、浅間神社ではなく、諏訪神社の祭礼
であり、『甲斐国志(かいこくし)』においては、”上吉田(かみよしだ)村諏訪明神の7月22日の例祭として町中で篝火(かがりび)を焚く”とあり、上吉田の産土神(うぶすながみ)であると記されています。

https://fujiyoshida.net/feature/yoshidafirefes/yoshidafirefes

 太古から度々噴火を繰り返していた富士山を祀る浅間神社が、火伏せの神格を備えているのは納得できるが、火祭は元々諏訪神社の霊祭だったとのこと。
 これは、前回も触れた富士の噴火から駿河に逃れ、甲斐を経由して諏訪に入植した洩矢神一族が、行く先々で富士の鎮火を願い、火伏せの神事を行っていた名残ではないだろうか。
 恐らく、道中の村に残った一族も居て、吉田の火祭りは、その子孫が後に諏訪から逆輸入の様な形をとったのではと思える。
 この千鹿頭神は、後に宇良古山に移って宇良古比売を娶ったとされており、宇良古山(現千鹿頭山)山頂に、千鹿頭神社がある。祭神は千鹿頭神の他、大己貴神命(大国主命)と建御名方命である事から、千鹿頭神は洩矢神一族から建御名方一族へ婿に入って両一族は融合し、勢力を拡大したのではないか。それは、富士王朝再建の足掛かりだったのかも。
 千鹿頭神を祀る千鹿頭神神社の本社は、長野県諏訪市大字豊田有賀にある。

有賀村(あるがむら)

諏訪市豊田にある旧村で、有賀氏の居城有賀城がありました。古くは有賀峠の登り口でした。諏訪神社と関係が深く御頭祭の親郷をつとめたことが多く、また高島藩家老、千野家のゆかりの村で、千野家の墓地や旧跡も多くあります。

https://suwacitymuseum.jp/nandemo/koumoku/0800/080108.htm

 (有賀峠は)諏訪伊那北部を結ぶ峠で、有賀村から南西へ約三キロの所にあり、標高一〇七一メートル。南東方に真志野(まじの)峠がある。有賀峠は古くから利用され、中世において「諏方大明神画詞」に記す伊那廻湛の神事に際しては神使一行が往路帰路もこの峠を通ったといわれ(上伊那郡誌)

https://kotobank.jp/word/有賀峠-3058434 コトバンク

 そして、座間の鈴鹿明神が治めた土地も、元々は有鹿神(あるかしん)が治めていたとされ、有鹿神社のホームページを見ると、有鹿は「アルカ」と言う水の神だったと言う記載がある。
 この有鹿(アルカ)神は蛇神であり、過去に有鹿神社の中宮があった場所には、今は諏訪神社がある事から、この有鹿神も富士王朝から相模に逃げてきた神官の一族が、後にアルカを諏訪の「鹿」と融合させ、有「鹿」にしたのかもしれない。

役小角と天狗

 また、火伏せの神事といえば、役小角と泰澄が建立した京都の愛宕神社が有名だが、こちらの千日詣りは座間の鈴鹿神社の例大祭と同じ7月31日〜8月1日に行われる。愛宕山といえば、最強の天狗「愛宕太郎坊」の住む山だ。
地元の都市伝説を追う②の2でも触れたが、相模の大山には、伯耆山からきた大山伯耆坊がいた。天狗や修験者は、「鹿」の民を語る上でかなり重要な存在だと感じる。
 この諏訪神社から北に約500メートル行くと、星谷寺裏の谷戸山公園には三峰神社も祀られている。

陰陽の金龍と、山犬(大神)が印象的
秩父の三峯神社の末社であるとのこと

 こちらは、埼玉県秩父にある三峯神社の末社であるとのこと。
 まず、初代知知夫国造の祖先前回登場した八意思兼神とされている。三峯神社のホームページには、この山でも役小角が修行したとあり、大人ノ学校のタロウさんによると役小角が使役した前鬼・後鬼の先祖は、思兼神の子である天手力男神(アメノタヂカラオ)であるらしい。
 この前鬼・後鬼は夫婦であり、赤鬼青鬼だったとされ、前鬼は大峰山前鬼坊という天狗になった伝説もある。鬼=天狗なのである。
 前鬼は陰陽の陽を表す鬼でを手にし、その名の通り役小角の前を進み道を切り開くを背負っていることが多い。
 後鬼は、陰を表す鬼(青緑にも描かれる)で、理水(霊力のある水)が入った水瓶を手にし、を入れた笈を背負っていることが多いとされている。

 役小角は、史上初めて富士山に登ったとされる人物で、この「史上」とは記紀以降の記録であり、それより以前から山に住む磐座信仰と龍蛇を祀る狩猟民族で「鹿」を名前に持つ者たち=鬼=まつろわぬ民の教えを、修験道として体系化したのが役小角だったと考えられる。
 大山伯耆坊が「青い鴉天狗」なのは、青鬼=後鬼に連なる一族と繋がっているからだとしたら面白い。
地元の都市伝説を追う②の2で、大山阿夫利神社の祭神は大山祇大雷神(オオイカツチ)、高龗神(タカオカミノカミ)だと紹介したが、この大山祇の子孫と高龗神の子孫が結ばれた先に大国主がいる。
 この三柱は全てである。江戸時代には、祭神である石尊大権現山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られ、摂社では奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。
 であれば、この天狗は龍であったとも言える。
 後鬼の持っている理水の水瓶は、阿夫利神社から持ち帰って雨を乞う雨乞いの水と似ている。
 神皇記にあるように、富士周辺に王国を築いた磐座・龍蛇信仰の月夜見尊の子である大山祇とその民が、噴火から逃れて甲斐、相模、駿河でそれぞれ秩父の思兼神、駿河から甲斐を経て信濃に渡った洩矢神、相模の寒川比古命の一族になったとしたら、この地域に共通する古代海洋民族の信仰に一応の説明がつく。
 龍の角は、鹿の角だと言われるのもこれが関わっている気もする。

 龍蛇の信仰はどこから来たのかという問いは、月夜見尊は何者だったのかということに繋がる。
 日ユ同祖論の中で、
 ・修験者(天狗)とユダヤ教徒の服が似ている
 ・秦氏と弓月族の関係
 ・アークと神輿の共通点
などが挙げられている。
水の神「アルカ」arca と書け、これはラテン語で 箱(方舟)を意味する。
 旧約聖書は、ルーツを古代エジプトの神話まで遡れるという。
 富士山公園の遥拝石には、ナーガが刻まれているが、ペトログリフ研究家の武内一忠氏によると、ナーガの尻尾が右に流れているのはエジプトがルーツなのだそう。

石の南側に彫られているナーガ

 誰が、いつ、どんな目的で刻んだのか。興味は尽きない。


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