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一度全てのものを疑うという方法

みんなも一緒に考えてほしい。
何が正しくて何が間違っているのか。
そんなの時と場合によって変わってくるという意見もあるかもしれない。

ここでは一度全てのものを疑って物事を正しくみるというやり方を学んでいく。
ただ疑うのではなく、疑える余地が少しでもあるならばそれが確実なものに到達するまで疑っていくことである。
このやり方を方法的懐疑と言い、提唱したのはフランスの哲学者デカルトである。ちなみにデカルトは数学者でもあり、X軸Y軸はデカルトによって発明された。

デカルトはこの世の絶対的な真理を探求するためこの方法的懐疑をしたが、これを元にジェンダーについて考えていきたい。

まず自分というのは本当に存在しているのか。この世界とは本当に存在しているのか。そういうところから疑っていくことになる。この結論としては、疑っている自分がまず存在していなければ何かを疑うことはできないので自分という存在は存在していることとなる。実際デカルトもこうやって考えていき、あの”我思う、ゆえに我あり“という結論に至ったわけだ。

さて、自分は存在していると分かったわけだが次は自分のジェンダーやセクシャリティを疑っていきたい。ここで重要なのは、“自分は男だと思っているけど本当に男なのか?女だと思っているけど本当に女なのか?”という単純な疑いではなく、そもそも性別とは男と女の2つしかないのかというのを疑ってもらいたい。
これまでは性別とは男女というのが当たり前とされてきたがどうだろうか。
テレビや動画やSNSで男女の枠に当てはまらない人達を見たことがないだろうか。または身の回りにそういった人はいないだろうか。
疑いようのない事実として実際そういう人達は存在している。
こうして考えていくと性別とは2択しかないのではなく、グラデーションだということに気付けるのではないだろうか。男女という間のグラデーションの上に皆それぞれの性別が位置していて、その位置が移動(揺らぐ)することもあるだろう。また自分に性別がないという人もいるし、男女間のグラデーションから無性への間のグラデーションも存在してもおかしくない。
人類は長い間性別は2つしかないと勘違いしていたにすぎない。
性別とは無数に存在するということがこれで明らかにできたと思う。

また性的指向においても同じように疑っていきたい。男(女)だから女(男)を好きになるのは正しいのだろうか。
疑って突き詰めていけばその考えは間違えだということに気付くはずだ。
同性を好きになることもあるだろうし性別など関係なく愛せるバイセクシャルやパンセクシャルという人もいる。そもそも恋愛感情が一切湧かないアセクシャルという人もいるし、人ではなく物に恋愛感情を抱く対物性愛という人も当たり前のようにいる。
必ずしも男(女)だから女(男)を好きになるという考えは間違えであり、誰が何に恋愛感情を持つかはそれぞれの自由である。

ジェンダーやセクシャリティにフォーカスしたが、方法的懐疑をもってすれば私たちが普段、”当たり前””常識”と思っていることでも、一度全てを疑ってみることで実はそうじゃないのではないかと気付けることも多いのではないだろうか。
何が正しくて何が間違っているのか、しっかりと見極めていきたいものですね。

”疑いは知のはじまりである”  ルネ・デカルト

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