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人間愛の正体とは

40年生きて、強烈に忘れられない日がある。

チャララーララー♪

静まりかえった町に、17時を知らせるチャイムが鳴り響いた。

片道3時間。車を走らせたのは、運転を頼まれた私。助手席には、むかし同じ職場で働いていた3つ年上のひとが座っていた。彼は元上司で、仕事を辞めてから自然と友達のような関係になっていた。

「このお店さ、『美味しんぼ』に載ってたんだよね」と彼はうれしそうに教えてくれた。

その料亭は、主要な駅や観光地をわざと避けたような場所にあった。そもそも飲食店を探すとき、駅から30分以上歩くとか、荒野を掻き分けた先にあったりすると、“あたり”の可能性が高い。私も彼も情報を扱う仕事をしていたので、その感覚がデフォルトだった。だから私は、彼が選んだ店に大きな期待を寄せていた。

凸凹の道を進み、私は高台にある料亭の駐車場に車を停めた。周囲を見渡すと、車もひと気もほどんどない。ただ、この料亭の佇まいは、東京の一等地にあっても不思議ではないほどの品格を感じた。畳敷の個室の窓からは、家も人もすべてがおもちゃみたいなジオラマに見えた。

「あなたたち、本当にラッキーねぇ。今日は頭料理を召し上がっていただけますよ」

そう言いながら、女将さんが慣れた手つきで料理を並べる。この「頭料理」と呼ばれるものが提供されるかは、じつは運次第だった。私と彼はついているなと思った。

30数年生きてきて初見の料理を食べられるなんて、胸が躍った。これはふぐ…? 白子? コリコリ、ぐにゅぐにゅとした歯応えとなんとも表現し難い味。でもおいしくて癖になる。

頭料理とは、魚の身だけではなく、頭やエラ、あご肉、皮などあらゆる部分を各所に応じた切り方で調理した料理だ。私の目は好奇心に満ちていた。一緒に提供された田楽も、ほっぺたが落ちるほどおいしかった。

目的は、この料亭だけだった。食事を済ませた私たちは、17時の鐘が鳴ったタイミングで、3時間の帰路をまた一緒に過ごした。

2人の会話は、途切れ途切れだった。私は当時、職場の人間関係に悩んでいて、運転中、上司の言葉が脳内で何度もリフレインしてしまい、よく無口になった。

この良くない状態は、10ヶ月以上続いていた。何もかもがうまくいっていなかった。八方塞がりとはこのことかと、1人思い悩んでいた。そんなとき、誘い出してくれたのが彼だったのだ。

そして彼を駅まで送ったとき、車の窓越しに告白された。

「付き合ってくれない?」

あまりにもびっくりした。と同時に脳裏に浮かんだのはこの言葉だった。

「……どーしよう。終わったかも」。

私は彼の好意を無意識に感じ取っていたのかもしれない。それなのに、私は彼の求めるひとにはなれなかった。女はずるい生き物だ。

でも私は、彼の感性が好きだった。彼が書く文章も、真綿なように繊細な心も、彼が編集者として選ぶ取材先も、すべてが私の心を刺激し動かした。これからも、彼が見聞きすることや文章に刺激を受け続けたいと心から願っていた。

でもその3ヶ月後、彼には彼女ができた。そしてまた数ヶ月後、「結婚します。子どもが生まれます」と連絡が来た。手放すと何かが入るとは、なるほどこういうことかと思った。

私は、頭を殴られたような衝撃が走った。

そして、子どものようにわんわん泣いた。



あれから5年以上経つけれど、彼との関係性は変わった。会うことはもちろんない。でも、仕事の連絡はよく取った。メールや電話でよそよそしくもあり、相手の状況を探るような気まずさもあり、照れくささもあった。

時に彼は、私が書いた文章を読みたがった。なぜ?と聞くと、「どんな文章を書く人になるのか興味深い」と答えていた。彼はかつて編集者をして、私は物書きをするライターだった。

今はお互い結婚し、それぞれの人生を歩んでいる。

彼と過ごしたこの日の情景が、脳裏に焼き付いて離れない。女将さんの優しい声、17時を知らせるチャイム音、町を染める真っ赤な夕日、高速を走る静かな車内、ミラー越しで落ち込む彼の姿。

彼の感性が好きだった事実は一生消せない。彼は男である前に、人間であり、私も女である前に、人間である。どうして、人間愛ではダメなのだろう。男と女であることで関係性が崩れ、私は彼の感性に容易に触れられなくなった。だから告白されたとき、私は「終わった」と思ったのだ。

都合のいい話である。私は人間を人間として受け止めたい。女だから、男だからではなく、美しい、かっこいいからとかではなく。これはわがままなのだろうか。でも当時の私は、男女の恋愛には置き換えられなかった。それを超越した人間同志の関わりを求めていた。

でも、愛にはいろんな形があるはずだ。

その愛がなにかしら歪んでいたり、へんてこな形に見えたりして、私たちは自分のフィルターを通して都合よく解釈し、盲目的に反応する。

それが人間であり、だからこそ愛おしい。
そしてどんなに人生に絶望していても、支えてくれるひとは必ずいることを知った。

17時のチャイム音は、
私の中に今もまだ鳴り響いている。

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