韓国ドラマ「涙の女王」とカントの心,自由、神(ネタバレあり)

韓国ドラマ「涙の女王」が8話目から急に引き込まれるように面白くなり、最後まで一気にみてしまった。
 部分的なネタバレになるので、見ていない人には申し訳ないが、カントの批判書3冊のことを考えてしまったので、からめて書いておきたい。
 カントの3批判のテーマである、神、自由、心の不滅。今時そんな迷信のようなこと考えて意味があるのか、と思っていたが、このドラマを通じて私たちの人生にいかにそれらの概念が強固に入り込んでいるか、いかにそれが私たちの望みか思い知らされた。
 カントは形而上学の課題は、神の存在、自由、心の不滅として、それら超越し私たちが感知できないものも証明されるべきことで、むしろどのように証明するか、あるいは証明しえないか、どこまで語ることができるかという方法論を開発していったように私は考える。
 ドラマでは女性の主人公へインは脳腫瘍で手術を受けるのだが、ドラマの中で仲のいい秘書に、さらっと、ドラマでは脳手術受けると記憶を無くすとかあるじゃないですか?と軽く予言されるがヘインはその時はスルー。
 ところがそれが手術前にヘインに告知され、ヘインは手術を拒否。手術して記憶を無くすと自分ではなくなる、と。よくある筋書きではある。
 このことは脳をいじって記憶が無くなり心の不滅が脅かさられる恐怖を物語っている。
 心の不滅が保証されないなら体が滅びても良いと。
 医学的あるいは科学的には同一人物が保証され、私たちも頭では手術を受けるべきだと思うが、当人だったらそれは悩むだろう。
 そして、そのような人生を選択する自由とはいかなるものか、手術を受けることになったのは宿命なのか、あるいはそうでないのか。宿命であったら自分で自由にできる範囲はどのくらいのことか、手術を受けるのは自分の決定か、そのようになるようになにかに差し向けられているのか?自分には自由があったのか?
 主人公たちは教会に行って祈り、札にお願いを書く。私たちだったら神社に行ったりするし、このような命に関わる手術だったら差し詰め御百度参りだろう。普段は無宗教だという日本人はそんなことないのである。
 主人公は手術前は手術に前向きになるために、手術後は第二の人生を生きる、といったり、人生を作る直すと言ったりする。これが実存的な生存であろう。
 また、生まれ変わってもまた君を愛するというセリフも多用される。そんなことあるわけないのに、脳を破壊されるだけで現世での心の不滅は怪しいのに、そんなふうに語り合う。
 つまり科学では否定され、私たちも迷信というようなことは、実は全然そんなことなく私たちの脳裏に常に存在する。そしてカントの考えた前提は前提ではなくて私たちの希求するものなのである。その希求が崩れ去ると存在論的に私たちは崩壊してしまうのではなかろうか。
 それを証拠に、涙の女王ではヘインは記憶を部分的に取り戻していく。私たちはそれを見て安心する。ヘインが夫には好意を抱くが、絶交した男にはやはり不信感をいだく。脳手術後と生まれ変わったこととを比喩関係にしている。そして、そのような心の連続性が担保されると私たちは嬉しくなるのである。

 記憶喪失が徐々に記憶を取り戻していくこの手法はサスペンスドラマではよくあるが源氏物語の宇治十帖ですでに使われていることご存知か。そして男2人の取り合いも共通して、匂宮が浮き舟を拉致監禁することを思い出すため、私はドラマを見ていて宇治十帖はなかなか先取りしていて物語の母型となっているなと思った。
 そのさらに母型となる白居易の長恨歌で後半、楊貴妃が仙人の里で使者にいかに皇帝を愛していたか語る。「もしお互いの心をこの黄金や螺鈿のように堅く持ち続けていさえするならば、天上界でも人の世でも、きっと再びお会いできるでしょう」「天上にあっては翼を並べて飛ぶ鳥となり、地上にあっては連理の枝となりたいものだ」新釈漢文大系 白氏文集 2巻下pp820-821 岡村繁 著 明治書院2007年
 また幽閉される女を描いた物語は同じく白居易の新楽府の37 陵園の妾 新釈漢文大系 白氏文集1巻pp722 岡村繁 著にある。源氏物語の浮舟に引用されていると中西進氏が指摘している。
 韓国の古い物語にも同様なものがあるに違いない。
 次はいよいよ「愛の不時着」を見るべき?

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