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中世環濠集落

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中小阪村と愛宕社

中小阪村と愛宕社

【彌榮神社から西の村内は、川の土砂の堆積作用で 土地が高く綿畑になっている所が多かったようですが、東 (居村部) は、土地が低かったので、東北、南に堀をつくり、土堤で囲み、ま たその内容に神社から少し東ま で、二重の堀をつくり、 洪水を防 ぐ村づくりをしていました。 このような村を環濠集落といいます。 愛宕社は村の東入口に位置し、他所からの火災及び盗難など、村への災害を防ぐ神としてまつられて いま

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中世環濠集落についての覚え書き(1)

中世環濠集落についての覚え書き(1)

 平安時代末期から中世初期の荘園制の村落内部では、名田を経営する有力農民=名主層が出現します。自営意識を持った彼らは、水利のためと外敵からの自衛のために村落を濠で囲み始めたのです。
【現八尾市域の小字を調べると、 中世来の村落のなかに 「垣内」 「垣外」 などの小字と共に、 村落の出入口であったことを示す「東口」「南口」 などの小字が残っている。 江戸時代の村絵図をみてもこれらの村落には、 環濠集

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中世の環濠集落跡を訪ねて4 稗田(奈良県大和郡山市)

中世の環濠集落跡を訪ねて4 稗田(奈良県大和郡山市)

 中世の環濠集落の原形を現代に良く残している代表例が、ここ大和郡山市の稗田でしょう。JR大和郡山駅から歩いて約20分、地蔵院川、佐保川を越えた平地部に位置します。
 周辺地域の住宅地開発は進んでいますが、この稗田の集落はかつて大阪平野にあった惣村のように、それに飲み込まれ原形が判別しがたくなる、という事もなく往年の村落の形をほぼ綺麗な形で残しているのではないでしょうか。

 中世における環濠集落は

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中世の環濠集落を訪ねて3  桑津(大阪市東住吉区)

中世の環濠集落を訪ねて3 桑津(大阪市東住吉区)

 元環濠集落を囲っていた濠は、平和な時代になると用水路などの水利目的が主になったため、幅が狭くなったりしてその痕跡を残す物も有りますが、埋め立てられて道路になった物も有ります。
 大阪市東住吉区の桑津環濠集落の環濠も昭和初期までは残っていたそうですが、今は完全に道路になってしまい、その面影は残っていません。
 しかし注意深く観察してみると、環濠であった部分の外側よりも内側の方がちょっと土地が高くな

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中世の環濠集落を訪ねて2 萱振(大阪府八尾市)

中世の環濠集落を訪ねて2 萱振(大阪府八尾市)

 萱振地区は大阪府八尾市の中北部、河内平野において長瀬川と玉串川に挟まれた低位沖積地にあります。この一帯では弥生時代から肥沃な土壌と豊富な水量を背景とした農耕社会が構築され、多くの集落が営まれて来ました。
 平安時代の「和名類衆抄」によれば、若江郡は北から川俣郷 ・ 余戸郷 ・ 新治郷 ・錦織郷・巨麻郷・刑部郷・弓削郷があり、そのうち萱振の範囲は錦織郷の南部にあたります。
 鎌倉時代以降、南北朝の

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中世の環濠集落を訪ねて1 八尾木(大阪府八尾市)

中世の環濠集落を訪ねて1 八尾木(大阪府八尾市)

【中世の環濠集落を訪ねて1  八尾木】

八尾市八尾木にあるこの石灯籠。google mapで見ると、金剛蓮華寺の石灯籠と名がつけられていますが、金剛蓮華寺が存在したのは平安後期〜室町初期と見られています。
 この石灯籠に刻まれた年号は弘化二年(1847)で時代が全く合いません。
 さて何(何処)のための石灯籠だったのでしょうか?

八尾木は久宝寺などの村々と同様に、中世に成立した環濠集落でした。

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