中世環濠集落についての覚え書き(1)
平安時代末期から中世初期の荘園制の村落内部では、名田を経営する有力農民=名主層が出現します。自営意識を持った彼らは、水利のためと外敵からの自衛のために村落を濠で囲み始めたのです。
【現八尾市域の小字を調べると、 中世来の村落のなかに 「垣内」 「垣外」 などの小字と共に、 村落の出入口であったことを示す「東口」「南口」 などの小字が残っている。 江戸時代の村絵図をみてもこれらの村落には、 環濠集落を形成したことを示す水路がまわりを囲んでいる。 たとえば久宝寺や萱振は中世後半に寺内町を形成するなかで環濠集落化したことは よく知られているが、八尾は三角州の沖積低地にあっただけに環濠集落 化はこれらにとどまらなかった。 平野川沿いの太田・木ノ本・太子堂・亀井・竹淵 、長瀬川沿いの東弓削 ・八尾木 ・八尾座、 玉串川沿いの刑部 ・上ノ島・福万寺、楠根川沿いの中田、 それに沢の川沿いの西郷などの 村落はいずれも環濠集落化していたと考えられる。 それはいうまでもな く荘園制下の村落から、名主などの有力農民を中心とした自治的な結び つきとしての惣が結成され、入会地や水利など村落内の共同利益を自治 的に管理したり、年貢など村落内の問題を寄合いを通して解決しようと したときの村の姿でもあった。 やがてこの中から南北朝の戦乱を境に、 土塁を築いて城構に発展するものや、 浄土真宗を中心とする寺内町として、堀構を深くする地域が出現した。】(八尾市市民文化双書No.4「市民のための八尾の歴史」より。)
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