うなされる

 大学生の頃、落語をちょっとやってた時期があって、2回くらい高座に上がったことがある。話術ひとつで笑いを取るなんて、かっこいい。そう思って入部したんだけど、練習の多くはYouTubeの動画を見て、噺と話し方を覚えるって感じだったから、ああこれなら別に所属してなくてもやれる、と思って数ヶ月でやめてしまった。今思えば、つくづく軽薄な男である。こんなやつに落語の極意などわかってたまるか。

 実はやめた理由はもう一つある。緊張に弱かったのだ。
 その身ひとつで笑いを取るのは確かにかっこいいのだが、裏を返せば、会場の雰囲気の責任、その所在は、僕にしかないのだ。これが大変な重荷だった。話を途中で忘れたら、助ける者はない。ウケなかったら、僕のせいである。
 僕は変に先を見据えてしまうところがあって、高座に上がる前にはそんな悪い想像をよくしていた。もう少し動物的な気質だったらよかったと繰り返し思っていた。というのも、動物には未来を予知する力はないらしいからだ。シマウマのようにサッと高座に上がりたかった。いや、そもそも落語家はそんなスマートではないか。
 笑わせたいという気持ちももちろんあったんだけど、それより恐怖感が強かった。出番を想像して不健康になるくらいなら、やめた方が幸せだろうと考えて、そうした。

 そんな経緯があって、僕はときどき、「高座の上で話す内容を忘れる」という悪夢にうなされる。最悪の夢である。
 この前見たのは、「猿の噺をしなければならないのに、内容が全く出てこない」というシチュエーションだった。
 面白いのが、僕は猿の噺なんて全く知らないのに、夢の中では「忘れて続きを話せない」と感じていることである。知らないことを忘れている、なんて救いのないシチュエーションだろう。僕が唯一話せるのは「ちはやふる」で、百人一首の噺である。なのに猿の噺なんてしようとしていて、気持ち悪い。

 目が覚めて、寝ぼけている頭が冴えてきてやっと、(ああおれは猿の噺なんて知らないじゃないか)と閃いた。そうなってしまえばおかしくて、しばらく、ひとりでニマニマした。知らないことを忘れる……夢って面白い。

 今思えば、冒頭に言ったようなことを考えているから、落語の神様に嫌われているのだ。学生の頃の、いっときの憧れのせいで、とんだ呪いを背負ってしまった。あるいはこれは、潜在的に再び高座に上がることを求めているのか? いや、緊張するからやっぱり嫌だ。

 今日はこれでおしまい。毎回1000字くらいの記事をサラッと書けてしまうのは、ちょっとした才能なのかもしれないなと思う。そう、おれは自惚れ屋なのだ。

大気中に含まれるという"残額"をすくい集めて駅で水買う
明日郎

これは即興で詠んだ歌。では。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?