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宮沢賢治の宇宙(78) 宗教と科学のはざまで悩む賢治

賢治の中の宗教 ― 浄土真宗から法華経へ

賢治が宗教と深く関わっていたことはよく知られている。

賢治の実家は、父の政次郎が熱心な浄土真宗の信者であったため、賢治も最初は浄土真宗に傾倒していた。しかし、一九歳の頃、法華経の経典(大正三年に出版された『漢和対照 妙法蓮華経』)に感動し、それ以来、法華経にのめり込んでいった。

そして1921年(大正10年)1月23日、賢治は東京に家出した。日蓮宗の国柱会(日蓮宗の僧侶、田中智学が創設した法華系の宗教団体)の門を叩き、入門した。賢治にとって、突然、日蓮聖人がスーパースターとなったのだ。賢治、25歳のときのことだ。

浄土真宗は現世を汚れたものとし、死後に極楽浄土に行けるとする考え方。一方、日蓮の教えは、現世こそ極楽。賢治としては、イーハトーブは極楽であってほしいと思ったはずである。

『銀河鉄道の夜』を読むと、法華経より、キリスト教の香りがする。そもそも、銀河鉄道の旅路は「はくちょう座」の北十字から「みなみじゅうじ座」の南十字までの旅”である。まるで、北の十字架から南の十字架を目指すかのような旅なのだ。また、主人公のジョバンニの名前はキリスト教の聖人であるヨハネのイタリア語読みでもある。

キリスト教にも親しむ

実際、賢治はキリスト教にも親しんだ。

『銀河鉄道の夜』にはキリスト教に関連する人や用語が結構出てくる(『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻に準拠)。


・ 黒いバイブル (139頁)

・ 黒いかつぎをしたカトリック風の尼さん (139頁)

・ つやつやした黒い髪の男の子、一二ばかりの毛の茶色な可愛らしい女の子、そして黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年:三人ともタイタニック号の水難事故で亡くなり、神様に召されてゐる (151頁)

・ クリスマストリイ (164頁)

・ 十字架 (165頁、166頁)

・ 「ハルレヤハルレヤ」(ハレルヤではない) (139頁、165頁)


ざっとこんな感じだ。

賢治とキリスト教との直接の接点は盛岡中学校時代に生まれた。アメリカから盛岡の教会に赴任してきた宣教師ヘンリー・タッピング(1857-1942)一家との交流が生まれたからだ。タッピングは内丸教会(盛岡浸礼 [バプテスト] 教会)で一九〇七年(明治四十年)から一九二〇年(大正八年)の間、宣教師の活動をしていた。タッピングは長女のヘレンを連れ出し、盛岡中学校で英語の講師を勤めていたので、賢治との交流が始まったのだろう(『盛岡と賢治』牧野立雄、賢治と盛岡刊行委員会、2009年の“エピローグ 花の恵み” 242-252頁)。当時は生の英語に触れる機会は少なかったので、賢治の目的はキリスト教ではなく、英語の方にウエイトがあったのかもしれないが。

また、タッピング宣教師の他に、もう一人重要な役割を果たした神父がいた。フランス人のアルマン・プジェー(1869-1943)だ。1902年から1922年の二十年間、盛岡の天主公教会で神父として在住していた。タッピングはプロテスタント系だが、プジェーはカトリック系。賢治はこのプジェーとも交流していた。『銀河鉄道の夜』に出てくるキリスト教はどちらかといえば、カトリック系である。そういう意味では賢治はプジェー神父の影響を強く受けていた可能性もある(『宮沢賢治 その理想世界への道程』上田哲、明治書院、1985年)の第II章 “賢治とキリスト教”187-271頁、『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』菅原千恵子、宝島社、1994年、23-30頁)。

そして、賢治とキリスト教とのもうひとつの接点は、妹トシであった。賢治は父の政次郎との確執があったため、東京に出ることなく盛岡高等農林学校に入学した。一方、トシは東京に出て、日本女子大学で学生生活を送った。そのとき、トシが出会ったのが、キリスト教に造詣の深い、同校の校長をしていた成瀬仁藏である。成瀬は宗教教育に力を入れていたので、トシにも大きな影響を与えた(「『銀河鉄道の夜』— 妹トシと成瀬仁藏の宗教意識からの一考察 —」山根知子、『宮沢賢治を読む』佐藤泰正 編、笠間書院、2002年、149-169頁)。

賢治はトシと一週間に一度の割合で手紙の往還を行なっていたので、トシから成瀬とキリスト教の話を聞いていた。実際、トシは花巻に戻ってくると、妹や弟たちに賛美歌を教え、皆で歌っていたという。それを見ていた賢治の言葉が振るっている。

「フシはたいしたことはないが、文句はいいな」 (『宮澤賢治の肖像』森荘已池、津軽書房、1974年、「彼の周辺」)。

さらに、盛岡高等農林学校時代の友人、保阪嘉内もキリスト教に強い関心を持っていた。札幌にあった東北帝国大学農科の受験に失敗し、浪人生活を送っていた頃、キリスト教に関心を持ったという。そして、翌年、盛岡高等農林学校に入学して賢治に出会う(大正五年)。先ほど、タッピングとプジェーの二人に関する賢治の文語詩と短歌を紹介したが、これらの作品が書かれたのが、じつは大正五年のことだ。つまり、嘉内との出会いが、賢治にキリスト教への道を開いた可能性がある(『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』菅原千恵子、宝島社、1994年、25-26頁)。

そして、宗教の統一モデルへ

私は天文学者(科学者)なので、自然界を司る規則には統一モデルがあると考えている。力や素粒子の統一モデルなどのことだ。

一方、人間の生き方そのものには統一モデルはない。では、「本当の幸せ」に至る道はあるのだろうか? 本当の幸せは精神に宿る。そうだとすれば、それは宗教に求めることができる。本当の神がひとりだけいる。そんな世界なら「本当の幸せ」を感じることができるはずだ。この発想が、賢治を宗教の統一モデルである「大信行」の構想に至らせたのだろう(図1)。

図1 宮沢賢治の宗教の変遷。賢治は中学時代禅宗の報恩寺に下宿していたこともあり、禅宗にも関心を持っていた(『宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経』田口昭典、でくのぼう出版、2006年、第1章および図表5)。

賢治の中の科学

賢治は自然科学の中では化学が一番のお気に入りであった。実際、盛岡高等農林学校時代は農芸化学科で学んだ。ところが、板谷英紀の『宮沢賢治と化学』に面白い記述がある。

・・・化学が好きというような積極的な理由ではなく、体力に自信がないために農科や林科を避け、動物に接するのが苦手なので獣医を選ばなかったという、消極的なものだったと言われます。 (7頁)

いやはや、これには驚いた。

しかし、盛岡高等農林学校に入学した後は、化学に強い関心を持つようになったことは事実である。一冊の教科書との巡り会いがあったからだ。

ちょうど賢治が入学した頃(大正四年 [1915年])化学の教科書が出版された。片山正夫(1877-1961)による『化學本論』(内田老鶴圃、1915年初版、1929年の第十版まで出ている)である(図2、図3)。

図2 東北大学図書館青葉山分館に所蔵されている『化學本論』。ちくま文庫の『宮沢賢治全集7』も分厚い文庫だが、比較すると『化學本論』の異常な分厚さがわかる。この写真は東北大学の友人が撮影してくれた。
図3 東北大学図書館青葉山分館に所蔵されている『化學本論』の最初の頁。比較のため、ちくま文庫の『宮沢賢治全集7』を右に置いてある。この写真も東北大学の友人が撮影してくれた。

この教科書は賢治の座右の書になった。それは、宮沢清六の『兄のトランク』を読むとわかる。

・・・兄の机の上にはいつも化学本論上下と、国訳法華経が載っていて、どれほどこの本を大切にしたかしれなかった。 (248頁)

『化學本論』は全一巻であり、上下巻に別れたことはないので、化学本論上下は清六の思い違いだろう。

『注文の多い料理店』(宮沢賢治、角川文庫、1996年)の解説に清六が文章を寄せているが、そこでは、次のように書かれている。

机の上には、いつも『化學本論』と『国訳妙法蓮華経』の二冊が置かれ、くりかえしくりかえし読んでいた。 (180頁)

とある。ここでは『化學本論』は一冊になっている。

『化學本論』の内容は第一編から第十編まであり、章の数はなんと35もある。この1000頁を超える大著を座右の書としていたのだから、賢治はかなりの化学マニアと言える。

欧米で出版される教科書は総じて分厚い傾向がある。数百頁はざらです。私が持っているものでは、“Galactic Astronomy(銀河天文学)”(James Binney & Michael Merrifield 著、プリンストン大学出版、1998年)は約800頁もある。しかし、書店に行って教科書のコーナーを見るとわかるが、日本で販売されている教科書の頁数は300頁ぐらいが標準だ。実際、日本天文学会百周年記念出版として刊行された『シリーズ現代の天文学』(全17巻)の各巻の頁数は約300頁。ひょっとすると、欧米と日本の科学力の差は教科書の厚さにも反映されているのかもしれない。

その意味では、大正時代に出版された『化學本論』は並外れて優れた教科書であったと言える。しかも、単に分厚いだけではなく、物理学の視点も踏まえて、網羅的に化学が解説されている。本論の名に恥じない大著であることは間違いない。賢治がはまったのも頷ける。

アインシュタインの相対性理論

『【新】校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料、補遺・伝記資料篇』(筑摩書房、2001年)には賢治の蔵書目録が載っている(249 — 254頁)。

洋書の中に一冊だけ物理学関係の書籍がある。それは、『Relativity and Space』(Steinmetz 著)である。斎藤文一によればこの本に該当するのは『Four Lectures on Relativity and Space』(Steinmetz 著)である(『銀河系と宮澤賢治』国文社、1996年)。出版は1923年なので、賢治が購入したものはこの本だと考えてよい。本文と索引を併せてわずか128頁の本である。相対性理論の理解にはかなり難しい数学的知識が要求されるが、この本の特徴は幾何学で平易に説明するところにある。直観に秀でた賢治なら、内容をある程度のレベルまで理解できたはずだ。

実際、賢治は相対性理論(特殊相対性理論)の知識を作品に利用している。『銀河鉄道の夜』にも「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」という表現が出てくる。

賢治は化学のみならず、物理学の理解にも秀でていたのだ

宗教と科学のはざまで

賢治は宗教にも、科学にも真剣に向き合った人だったことがわかる。

一般的には宗教と科学は目指すものが違い、そりが合わないと考えられている(実際には、科学者の中には熱心な宗教家も多いのだが、ここではその話はしない)。

では、賢治は宗教と科学のことをどう思っていたのだろうか? これを理解するために、賢治が科学という言葉を詩のなかでどのように用いたのか見てみよう。例を、二つ挙げる。

まずは、『ダリヤ品評会席上』という詩。

この花にもしそが望む大なる爆発を許すとすれば
或ひは新たな巨きな科学のしばらく許す水銀いろか
或ひは新たな巨大な信仰のその未知な情熱の色か
容易に予期を許さぬのであります 
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第四巻、282頁)

次は、〔「詩ノート」付録〕の〔生徒諸君に寄せる〕の中にある〔断章八〕。

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われら祖先乃至はわれらに到るまで
すべての信仰や徳性はたゞ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ 
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第四巻、300頁)

これらの詩を見てわかることは、“科学”は“信仰”とペアになって出てくることだ。信仰は宗教。つまり、賢治は科学を宗教と同等の位置付けにしていることがわかる。

ただ、いつも、信仰が科学の前に出てくるので、やはり宗教が第一義的に重要だと考えていたとしてよい。

宗教は疲れ、科学は冷たく暗い

賢治は花巻農学校を退職したあと、賢治は羅須地人協会を設立して、農業の発展や農民の支援に動き出した。その頃、協会で講義をするために『農民芸術概論綱要』を執筆した。1926年の1月から3月にかけて用意されたものだとされている。その綱要の中に「農民芸術の興隆」があるが、そこには次の文章が書かれている。

宗教は疲れて科学によって置換され、然も科学は冷たく暗い
 宗教中の天地創造論 須弥山説 神道は拝天の余俗である歴史的誤謬
 見えざる影に嚇された宗教家 真宗
 科学は如何 短かき過去の記録によって悠久の未来を外部から証明し得ぬ
 科学の証拠もわれらがただ而く感ずるばかりである
 そして明日に関して何等の希望を与へぬ いま宗教は気休めと宣伝 地獄  
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、18頁)

意外なことに宗教は疲れて科学によって置換され、然も科学は冷たく暗いという述懐が出てくる。1926年といえば『銀河鉄道の夜』の初期形三が執筆されていた頃のことだ。宗教だけでは農民を救えない。じゃあ、科学なら救えるのか? 助けるのなら、なぜ日照りのときは涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩く必要があるのか? 賢治は多くの葛藤を感じ始めていたのだろう。

賢治は宗教の統一モデルを模索した

最初に述べたように、晩年が近づくと、賢治は「新信行」という大きな宗教を望むようになった(図1)。「新信行」はすべての宗教を含むので、神は一人しかいない。それが実現すれば、争いが起こらない平和な世界になる。もちろん、その目的は賢治個人の幸せではない。世界全体の幸福である。


世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻、9頁)

『農民芸術概論綱要』の序論に出てくるこの一文に賢治の真摯な願いが込められている。


相対性理論を独力で構築した物理学者アインシュタインは科学を信じてこう語った。

「神はサイコロを降らない」 

だが、ミクロの世界の出来事は確率でしか語れない(量子力学)。「値(物理量)」を確定できないのだ。

では、私たちの身の回りで起きる出来事や、もっとスケールの大きな世界(例えば、地球、太陽系、天の川銀河、そして宇宙全体)ではどうなのか? どうも、そこでも神はサイコロを振っている。なぜか? 

私たちは「環境」と常に相互作用しているからだ。服を着れば服の生地と相互作用する。足を見れば地面と相互作用している。そもそも、大気と相互作用しているのだ。

その相互作用を司る力(重力、電磁気力、原子核に関わる強い力と弱い力)はすべて遠隔力だが、常に私たちに力を働きかけてくる。それに抗うことはできない仕組みになっている。

個人個人の体は異なるので、「環境」との相互作用の質と量には個人差がある。オリンピックでメダルを獲る人と、獲らない人が出てくる。時(とき)のイタズラなのか? そうではない。環境との微妙な相互作用がそうさせているのだろう。そのため、神はサイコロを振るように見えるのだ。

宇宙意志

賢治の思想は「宇宙意志」という言葉でも表現されている。山根知子の『わたしの宮沢賢治 兄と妹と「宇宙意志」』(ソレイユ出版、2020年)によれば、この言葉は1929(昭和4)年ごろに書かれた手紙の下書きに残されているとのことだ(29頁)。

「ただひとつどうしても棄てられない問題は、たとえば宇宙意志というようなものがあって、あらゆる生物をほんとうの幸福に齎らしたいと考えているものか、それとも世界が偶然盲目的なものかという、所謂信仰と科学のいずれによって行くべきかという場合私はどうしても前者だというのです。」

単純に考えれば、宗教と科学は次のように表現してもよい。

・ 宗教=主観的に寄り添いたいもの
・ 科学=客観的に寄り添いたいもの

しかし、世の中、こうは上手くいかない。宗教と科学も相互作用しているからだ。

「宇宙意志」も「環境との相互作用」で決まっていく。

だとすれば、その目指すところを私たち自身で決めることは難しい。だから、賢治は悩む。そして、私たちも悩む。その悩みは人間の業(ごう)。

賢治は宗教を選ぶ。私はできれば科学を選びたい。人それぞれだ。

宗教とも、科学とも、楽しく気軽に付き合っていくしかなさそうだ。「宇宙意志」とは仲良くしておいた方がいい。

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