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データが全部消えたので憂さ晴らしに10000字書いた👊


instagramの下書きが全消えしたので

別にいいけどさ、キャプション上限行っちゃってたし。思いつくままに書いていつも通りしっちゃかめっちゃかな脈絡だったので、読んでも意味わからない怪文書だったこと間違いなしだ。だから、もうこうなったら最初から書くしかない。noteだから容赦はしないぞ〜!

何だっけな、大学4年間を振り返ってみよう!みたいなのを書いていたんだ、途中まで。

同期はみな卒業ということでいろんなポストが上がってくるけど、自分はどうかと思い起こし始めてから、過集中も相まってとても長々と、「よさげ」なカッコいい文章を書いていたのだ。でも最近インスタに実装されたよさげな機能:音楽付き投稿でいい感じの音楽を探していたら全部消えた。しかもどこかに下書きを保存しておけばよかったのに、不注意で変なところ全部どこか行った。大バカ者。ゼミでも先生に少なくとも三か所にバックアップをしなさいと、耳タコで言われていたでしょうが。

ちなみにこの間……すでに経過している約1時間半……は本来、研究計画と論文の読みこなしに充てられるべき時間だ。つまり消えた文章とここに書いているライターズハイの絞りカスみたいなブログすべて含め、現実逃避でしかない。

罪悪感は増すばかりだ。まだ担当先生に連絡とってないし、その理由も「まだ読み終わってない本が無限にあるし、ゼミ内ルールその①『知らないところを残してはいけない』が全然達成できない」「また『院試難しいですね』って言われたら今度こそ立ち直れない」という大分情けないものだ。早くやった方がいいのは億も承知で、それでも別のことで手が動いている。大バカ者オブザイヤーです。早く、残りの20ページ分を読み終わってさっさとメール書かないか。
ちゃんとメールは送ったし、面談もできた!やった〜!

4年間のざっくりまとめ

4年間何してたの?
よく言われる。自分でもわからない、変な4年間だった。そういえばいまだに、まともに一年間大学に通ったことがないので、今所属している学部の体系的な学びがちゃんと身についてるかと聞かれたらとても怪しい。


一回生はコロナ禍

二回生は年の4分の3がオンライン授業。初の半年留学。国内だけど、学びがたくさんあった。

三回生は二度目の半年留学。こっちは国外留学

四回生、本来なら卒業年。

しかし、ままならず休学。現在に至る。ちなみに今年は五回生ではなく四回生である。


受付で「一度目の四回生ですね」と言われ、「二度目三度目の四回生もあるのか……」とびっくりした。大学に入ってもそれなりに同質性が高い集団に属している気がしていたが、それは思い込みだと改めて思い知らされた。

卒業せずに、一年間の療養および病院通いをスタートさせ、自分にとって確実にこれから必要であっただろうセルフケアの年。うまくいったかはわからない。

みんなそうだと思うが、この4年間のうち、前半部分はコロナ禍の真っただ中で時空がゆがんでいる。
しかし、通算5年以上も関西に住めるとは思ってもみなかった。今や住み慣れた我が家だが、慣れすぎて最近はウーバーイーツにも手を出し始めてしまい、QOLは満たされているがエンゲル係数(というか配達料)がばかにならない。自炊よりもはるかに高い。ウーバー1回分で、三食1おかず1主食で一週間事足りる、という感覚。
学校以外で、「セルフケア」の大切さを4年で嫌というほど一番学んだかもしれない。自己愛ではなく、時には厳しく自己を節制するという意味を含め、できてるかどうかもさておき自分の心身を安全に保つために、セルフケアは欠かせないと思う。

しんどい話、と連帯の話

(戦争、虐殺、暴力、性暴力、セクシャルハラスメント、トランスヘイトのことについて書いてます。
トランスヘイト、あらゆる差別に反対しています。
🏳️‍⚧️🏳️‍🌈
戦争の凄惨な動画や、トランスヘイト、セクシズムと性暴力関連の項目があります。
目次から次に飛べるので、飛ばしてください)

この4年間、テレビや新聞にはほとんど触れない一方で、インターネットを介して様々なニュースに触れた。良し悪しや偏りを引き起こしていただろうし、何より情報の暴力性が高かった。

・戦争(SNSでの凄惨な動画について)

この4年間、その前からくすぶり続けていた戦争、いのちの奪い合い、生き死にの最前線が、リアルタイムで、しかも膨大に流入してきた。初めて見たのは、2021年のミャンマー軍のクーデター、繰り返される民間人への虐殺。初めて見たハッシュタグ#.whatshappeninginmyammarは、BlackLivesMatterとほぼ同時に見かけるようになった。ちょうどタイのメディアに興味を持ち始めた頃と重なり、2020年のタイの反政府デモに重なってこうした東南アジアの政治情勢にリアルタイムで触れることになった。流れてきたのは、虐殺の後撮影されたと思われる動画ばかりだった。今になって考えるとその動画や情報の真偽はわからないが、その当時の自分にとってはかなりショックな情報だったことには間違いない。
バンコクの反政府デモでタイの治安部隊が放水銃を民間人に発射したり、ゴム弾で発砲したり、緊迫していたが……。

ウクライナへロシアの軍事侵攻が始まったのが2022年、ガザ・パレスチナにイスラエルが報復として民間人の大虐殺を行ったのが去年、2023年から2024年、今この時も続いている。
人間が人間の命を奪うことが、自分の目に入る限り連鎖するように立て続けに起こった。今までだって、凄まじい暴力はずっと起こっていただろう。しかし自分がそれまでどれだけ旧メディアに心身の健康、「過激な」情報から守られていたのか改めて実感させられた。その良し悪しはいまだにわからない。

・フェミニズム(差別許さない)

またこの4年間で変わったことと言えば、人権感覚や「規範」に対する感覚の変化だった。特に日本のシス異性愛規範や、ホモフォビア、ミソジニーに起因する差別的な報道(これは当時はまっていたタイBLの報道であからさまに異性愛規範主義の入ったインタビューを行ったり、取材した記者がBLに対する偏見の入った受け答えをしていたことが引っかかってから、ずっともやもやしている話題だ)、そこがきっかけで、今までうっすらと感じていた「ジェンダー/セクシュアリティに対する違和感」が、シス異性愛規範によるものと感じ始めてから「フェミニズム」や「クィア」を意識したように思う。それから、セルフケアという言葉、自分を労わる権利や、それが他者にもつうじる「自分を大切にし、他者も大切にする」ということが人間のもつ基本的な権利であり、心身を守り、守られる権利があるという概念を理解するようになった、と思う。(うまく説明できてるか自信はない)

よく聞かれるので無理やり答えるけど、自分が「マイノリティ側」に立って物事を考えはじめたのも、2年くらい情報を得る過程を経てからだ。一言で説明すると自分を「異化」してみることでそうなったけど、これの説明はかなり難しい。他者を「同化」するのではなく、自分を「異化」するということ。自分の基準ではなく他者の基準で自分を再度分析すること。一言では到底説明できないけど、自分が当たり前に受け入れていた規範や属性、社会の出来事を、「当たり前ではない」ともう一度捉え直してみること。
他者に対して、この人はこういう人なんだ、と認識するのは簡単だけど、自分に対しても同じように、自分という人はこういう人なんだ、と他人事でジャッジしてみる。当たり前ではなく、それがいろんな視点でどう捉えられるか考えてみる。自分の場合はそのトレーニングが「シス異性愛規範」とか、自分が感じていたモヤモヤが言語化される一つの原点になってる気がする。

こんな書き方をするのは歯がゆいし個人的にはクィア、と呼ぶことが圧倒的に多いけど、今でこそ「LGBTQ+」という言葉が浸透し、挙句「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」(LGBT理解増進法ともいわれる)が施行されるなど、話題になることが多くなった。この理解増進法をめぐる話の中で「苛烈な」トランスヘイトが起こり、「われわれはすでに共にある」にもかかわらず、そして野放しにされている性犯罪への罰の軽さよりもまず先に、トランスジェンダーに対するバッシングが巻き起こった。毎日SNSを開くと、心無い言葉を目にした。そもそもツイッターでたたかれやすい「フェミニズム」だが、そのフェミニズムの中でも仲間割れ(と、呼べるのか?という疑問はあるものの)があり、細かく見ていったらきりがないものの、連帯と一言でいえども難しいのだと実感させられるようなこともあった。これは、いろいろ意識して情報を調べるようになって3~4年目の、つい最近感じたことだ。1~2年目は解放感のような希望を持っていたし今もそうだ。でも、難しさも感じる。分断や、目の前の人と連帯できない時。できなかったな、と反省する時。詰めてしまった時……(無限反省タイム)

つい最近といっても去年の話だけど、クィア理論の読書会にも参加した。一番許せなかった自分の反省ポイントは、自分は頭がコチコチで言葉の使い方にうるさくて、フェミニズムの論文の読み方が分かっていなかったことだ。フェミニズムやクィア理論に関して、今でも「わかってる」感覚は全然ない。自分が情けないが、訴える文章がなぜ必要なのか、誰のための学問かを強く問われている!と肩を掴んで揺さぶられた気がした。強い衝撃だった。

自分が全然わかってないのに書くのはよろしくない。この話を、家族とするとき、あるいは友達と、大切な誰かとするときに、ちゃんと言葉を選んで話せているだろうか。“知性主義っぽい感じ”が分断を生みそうで、という言い方をしていいものかわからないが、どうやったら伝わるのかをずっとずっと考えている。
今の自分に必要なのはやっぱり圧倒的に足りない背景知識と、どうわきまえないでどう「反差別」するのかということだ。どうしても、言葉や態度さえも、ある種の「ただしさ」にのっとった規範の中でやってる気がしてしまう。(けんかができない、というやつである)でもそれって現状ある権力勾配の中で「わきまえる」ってこと?じゃなくて……、何ができるだろう、こういうときいつも頭に浮かぶのは、ちょうど最近同性婚法が国会審議を通ったタイの政治と若者の姿だ。タイのクィアドラマを見ていて、あるいはタイの若い世代が持っている人権意識と、日本の冷笑的な、あるいは規範にそぐわない者として見下す、マジョリティの態度の差に愕然としてしまう。

・セクシズム、東南アジアへの加害の歴史、差別

気持ちが暗くなってきた挙句さらに気の沈むことを書く。東南アジア・タイのドラマにハマったことがきっかけでタイについて学ぶきっかけをもらい、挙句修士にまで進もうとしているが、楽しかったのはほんの数年、それこそ1~2回生の間だけである。その後は、その楽しさを上回るいろいろな問題にぶち当たることになる。タイの同性婚法の話題を出したので。タイすごい!という話ではなく、日本も関わるタイのジェンダー・特にセクシズムの問題が、帰国後も自分の中で引っかかりすぎて、辛かった。

日本人がタイ女性に対するセクハラで訴えられ、女性の性的客体化をやめろという署名がタイにある日本大使館に届けられたことはつい最近のことだ。東南アジア・そしてタイのセックス・ツアリズムの状況について、自分は異常だと思わざるを得なかった。それはセックスワーカーの労働の権利とはまた、別としての話である。女性が常に、「性的客体化」の眼差しの下におかれること、それがジェンダースタディーズの授業の中で、教授が「タイの女性は、常にそのようなまなざしの下に置かれていることを忘れてはいけない。たとえあなたがセックスワーカーではなくても」と言われ、それを聴く外国人の自分と、隣のタイの学生たちの様子を忘れることができない。それから、男子学生から日本の「AV」について話題が出て、日本人の女性を世界で消費していることに対して謝られることもあった。何と返せばいいかわからなかった。ただ、日本でそんな話題が出たら、その話題が出たこと自体が冷笑されそうな気がした。全然笑い事じゃないが。

東南アジアに対する日本人の眼差しについても、逆に問いただしたいことがたくさんある。見下していないだろうか。自分自身も含めて、観光地でのふるまいや通貨の安さ、そして第二次世界大戦中に進駐した日本軍が現地の人々にふるった暴力についても、幾度も考えさせられた。カンチャナブリに行く途中のクウェー鉄橋で写真を撮る人々。その黒々とした橋梁の鉄骨に刻まれた「大日本帝国」の刻印と、爆弾を模したモニュメントを横に、「まあ君がやったわけじゃないから。遠い昔の話だよ」という友人たちの慰めに、言葉が出なかった。泰緬鉄道がロームシャと呼ばれる駆り出された現地の人々、そして連合国の捕虜が数多く犠牲になったことを、連合国軍の墓地で知った。その横のDeath Rail Museumの黒い字で書かれた大きな看板を一生忘れることはない。自分が、その日早朝から駆り出されて眠りながらついたカンチャナブリの旅だったが、その帰路に初めて、何があったのかを調べて上記の暴力を知ったこともすべてが忘れられないし、情けなく、恥ずかしかった。

世界にはしんどいことがたくさんある

そしてそれを一人で全解決することは到底できない。だから、一緒になって考えたり、声を上げたり、痛みを分かち合うということに意味がある。
セクシズムや奇異の眼差しを日本で受けたという国際生の話が忘れられない。LGBT法が施行されたんだという話からトランスヘイトのすさまじさにふれたとき、大切な友人とその痛みを少しでも分かち合った。この状況の中、あなた一人ではないし自分一人でもない、と分かり合った。このことに、どれほど心強い意味があろうか。あなたが傷ついた現場に自分はいられなかった、それでもここにあなたのためにいるといいたい、と何度思っただろう。届いているかわからないけど。

こういう話をできた、その場を開いてくれたその瞬間にずっと感謝しているし、こういう場がもっと必要な人がいるし、だから対話や交流の場があること、開いてくれた人々に本当に感謝している。また、その場を安全な場として、了解があるというのは本当に難しいことで、その難しさは活動の内外を問わずあることだけど、それでも共に何か問題提起を分かち合えたと思える瞬間が個人レベル・集団レベルであった時、その場に感謝している。セルフケアだけじゃなくてそこには連帯がある、と思う。

唐突のありがとう大感謝祭

この4年間が全て辛く苦しかったわけではなく、救われたと思った瞬間もたくさんある。ので、唐突にありがとうの会を開催する。本当に唐突ですがご容赦ください。

  • オリター

留学していた約1年間を含め、あちらこちらを行ったり来たりしていた自分に居場所をくれたサークルの人々や、オリターのみんなや遠く、近くの友人たち。オリター、本当にやりがいがあったし、向いてた。というか一回生で経験したコロナ禍サバイバルが本当にやばすぎてピアサポートをして次なる犠牲者を出さない、という燃える意志で入ったけど、出会ったオリター達が本当に楽しくて、春研は毎日が小学生の放課後みたいで、楽しかったなぁ。結局謎の国文?語録や謎のダンス、謎に満ち溢れてたけど結局全部楽しかった。そして若さを感じる。

  • 別府で出会ったみんな

別府の国際寮でご飯を一緒に食べた人達、バディのみんな。あの頃の大分は規制が他県よりちょっとゆるくて、初めて飲み会やごはん会を過ごした。アイス食べたり、ミーティングに次ぐミーティングでどれだけオンラインミーティングあるねん、と思ってたけど国際生が入国できなくて、みんなストレスかかってた時期だった。
そんな時、同じ階に住んでいた方にパンや魚を分けていただいたこと。退寮するときに、炒めたマカロニやヨーグルトの添えられた夕食をいただいた。退寮前の何もない部屋で、あるいはコロナの蔓延で一緒に食べる場所がなくて一人で食べた最後の夕食が本当にうれしくて、虫害に苦しめられた秋クォーターの前半の苦しみやその後取っている講義やオンライン授業の増加でどんどん孤立してしまった(それが自分の知らないところで心配されていた。それを教えてくれた院生の方たちもありがたかった)ことも忘れられるくらい心が救われた。その国際生の出身国はいまだ混乱の中にある。「仏像もあるし、きれいな湖があるんだよ」と教えてくださったときの「今はいける状況ではないけど、いつかね」という言葉が忘れられない。

  • タイ留学中に出会ったみんな

留学中、何度も外へ連れ出してくれた友人たち。幾度となく体調を崩し、なんのためにここにいるのか寝込むうちに引きこもるようになった自分を何度も、新しい景色へと誘い出してくれた友達。本当に感謝しきれないし、見た景色や教えてくれたこと、一緒にご飯を美味しいね、と分かち合える時間、全てが本当に尊い時間だった。気づいたらタイの各地を縦断するように、さまざまな場所へ連れて行ってくれた。バンコクのモールを一緒に回ってくれた友人たちも。本当にみんなのおかげで外に出ることができたし、迷惑もいっぱいかけてしまったけど、ずっと感謝している。体調を崩して迷惑をかけるのが怖くなって、全然一緒に過ごせなかったことも後悔している。自分の体質に振り回されっぱなしで視野が狭くなっていた時期でもあったと思う。本当に反省が尽きない。でも声をかけてくれたみんながいたから外に出る勇気が出たし、前にも行ったけど本当に救われた気持ちがした。ありがとう。

家族のように接してくださった先輩。こちらに在学されていた時は毎週のように先輩の家でタイのご飯を作って一緒に食べた。いまだに交流があってタイに留学中も何度もお世話になった。ショッピングモールで倒れたときも心配させてしまったが、病状のタイ語訳を忙しい中快く引き受けてくれた命の恩人だった。心の支えだったし、タイ語やタイ式の食器の持ち方、タイの若者言葉についてもたくさん教わった。生きたタイの知識だった。本当にありがとうございます。たくさん、いろんなことを知ることができたし、それとバイトのみんなで食べたキンパ4合は本当に忘れ難い。美味しかったなぁ。

  • サークル

その先輩と出会ったサークル。離れては、戻りを繰り返していたにも関わらず、いつでも暖かく迎えてくれる居場所だ。土いじりと野菜がもらえるというのがいいな、という理由が主である。見てわかる通り、上記にあげた記録の大体が「ごはん」に関わる記憶である。ごはんだいすき。

美味しい野菜をいただき、美味しいなあと思いたい。そんなふわっとした気持ちで発足したばかりのそのサークルに二つ返事で参加したものの、その後の進路で特に夏以降は全く参加できなかった。睡眠に問題ができてからは朝の当番も行けていない。しかし最初期と比べ、人数は倍以上、本当に大きくなった。またサークルの主軸である地域の人と学生、大学職員の三者が協働するという場として、サークルは大人と学生双方にとって、とても意味のある場となった。それは地域の方が、まるで自分の子供や孫のように学生を心配したり、卒業する学生を見送る姿から感じた。

長くなりすぎるからまたどこかで書くけど、地域住民と学校が通りを隔てて隣接する地域だからこそ緊迫した関係性にあり、無礼を働く学生や学校の対応に関してトラブルが起こることがある…その時対応するのがまず警備のため外にずっと立っている警備員の方々であり、それから大学職員なのである。このことをどれだけ我が事と捉えている学生がいるのか、あるいは気付けている学生がいるのか、まずそこから問題が浮かび上がるのだが、それはさておいてそのサークルでは畑・土いじりを通じて協働することで地域と学生、職員をつなぐ場になっている。自分は大人と話すのにかなり緊張するたちで、もっというと世間話を交わせるようになるまで3年くらいかかっているが、一回生でも積極的に声がけをする学生さんもいれば、黙々と作業をこなしてくれる学生さんもいて。和気藹々とサークル活動が続いている(その裏で幹部の皆が一生懸命準備をされている事も忘れてはいけない)。

辞めた方がいいかな、とも思っていた時期もあった。野菜作りはただ植えて水をやれば育つというものではない。命を管理するために、毎朝水をあげ、こまめに様子を観察しなければすぐ病気になり、せっかくおこした土もダメになってしまう。そのデリケートな状態を見守りながら育てていく事の難しさや反省を、自分はどこか中途半端な場所から眺めているような感じに思えたことがあった。それは一生懸命サークルを運営しているみんなに失礼だし、植えている野菜にも失礼だ。いまだに申し訳なく感じること数多なのだけど、それでも辞めないで自分にできることならずっと関わろうと思えるのは、帰ってくる度に「お帰りなさい」という言葉をくれた場所だからかもしれない。コロナ禍から今までずっと繋がりがあるのはこのサークルぐらいだ。もう5年目になってしまうので、おそらくサークル最年長になってしまうこと必至だけど、今度は自分がお帰りなさいと言いたい。あるいは自分も適材適所でゆるく、本気で引き続き参加していく予定だ。

まとまらない終わり

ちょっとメンタルヘルスのことも書いてます。念のため、気持ちの落ち込みがひどい時は薄目で読んでください。
こころとからだの健康第一です。
🫂
また、然るべき機関で然るべきケアは受けておりますので、ご心配には及びませぬゆえ。

たくさん書いた割に着地点の見えない終わりになりそう。

今後どうなるかはわからない。結局、休学のきっかけになった症状とは背中合わせで進級することになった。だからといってこの一年が無駄だったということは決してなく、むしろ自分のペースで、納得のいく時間を歩めた。これはひとえに家族の、環境のサポートがあってこそのことだった。感謝という言葉だけでは到底、書き足りない。休学費が安かったことも、ありがたかった。

バンコクから帰ってきて数ヵ月は、泥の中でもう死んでしまったような感覚だった。何もしていないのに、何もできていないのに、疲弊だけが積もり積もってのしかかるような鬱の中で何もできなかった。楽しかったことも全然頭に入ってこなかった。それはその前の年から、もっと遡ればもっと前から薄々持っていたものだったが、これほどまでに心身を蝕んで頭を押さえつけるようなものだとは思わなくて、思うように動かない頭と体に並々ならぬストレスを感じていた。この休学期間は、5月頭に提出して通ったものだった。つくづく、システムも味方してくれた休学だった。それがなかったら、こうして文章を書いていないとおもう。

おかげでなんとか、やっていけそうで、そして最初の文章を書いてから4時間が経とうとしている。なんとこの間で一度PCがクラッシュしてみたこともない色で画面が横に4分されて危うく二度目の全消えを経験しそうになったところで、慌ててタブレットとアプリに切り替えて残りを書いている。これが卒論だったら……クラッシュしてクラウドもろもろ吹き飛んだら、自分が自分でいられるか定かではない。

そうだ、そういえば最初は4年間大学に通ってみてどない?みたいな感じで始まったのだった。話が逸れすぎてものすごく沈んだと思えば今度はありがとう大会を開催してみたりと、むちゃくちゃになった。

入学当初予想していた4年で卒業というルートはとっくに破綻している。繰り返すようだけど、同質性が高い集団に属している気がしていても、それは思い込みだ。
人生は人の数だけあるし、自分が見えていないだけで実はいろんな人が生きている。それは自分を含めてそうだ。
もちろん自分が『無茶振りをしてもある程度生きていける特権的な環境にいる』から、ということは大前提として、無茶振りを家族や関係各所に、しかも結構ギリギリのタイミングでしでかしたことを深く反省するとして。
このしっちゃかめっちゃか学生生活も、きっとどこかで区切りがつけられるはず。きっとめちゃくちゃでも大丈夫だ。そして、なんてったってあと一年ある。頑張るぞ〜。

と、裏付けのない謎の自信たっぷり長怪文書を……かれこれ6時間かけて書くことでまた研究計画書から逸した行動をとっているのだけども。息をつくように大大大自己矛盾である。

今のところこんな感じで、まだ書きたらないことが元気いっぱいある。もはや何も関係ないが、最近筆が乗ってきてたくさん言いたいことが渦巻いている。アニメ、映画、タイドラマを始めコンテンツに救われた話がたくさんあるし、これが言語化できるのは元気が出てきたおかげでもあるのだ。真ん中らへんで話したクィアのはなしも、今だからようやく言語化して説明できる「「「良」」」さの話とかたくさんある。同時に作品批判もするので壁打ちオタクとして独り言を呟いた方がよくなってしまうのだけど(じゃあ鍵垢でしなよ)(語りたいけど角が立つので語れない、ハリネズミ状態)

大学入って培った「教養」は、それまで笑えていたコンテンツを笑えなくなり、楽しめていた作品に疑問をもつ眼差しを、否応なくくれた。そのことって、生きづらいと思われそうだけど、大学に入って一番の基礎的で大事な変化だと思った。

それがしんどい話に書いたような真剣なもがきや責任であり、あるいはいま書いたオタクハリネズミ状態でもある。

権力勾配(ポリティクス)のなかで無理やり生きてる社会の一員として、課されている永遠の課題のような気がする。もしかして、PCがご破産せずに卒業できたとして、区切りはついてもまたこうやって、だらだらと浮かび上がる疑問に対して言語化を続けるのかも。永遠の課題終わらないかも。文章も永遠にまとまらないだろう。

多分それでもたくさん書き続けると思うので、機会がありましたら、またよろしくお願いいたします。

全然関係ないので最後に。

トータス松本さんの歌う『みいつけた!』の歌詞がとてもいい。子供の頃は「たーまご、たーまご」のフレーズで耳に残っているけど、フルバージョンで聴いていたらふと耳に飛び込んできた歌詞がある。 

割れたり枯れたり 色々あるけど

気にしない 気にしない

すぐまた見つかる 必ず見つかる いくらでも

トータス松本「みいつけた!」 
歌詞より引用

そうだよね、必ず見つかる、いくらでも!前向きになれた気がした。ちょっと勇気が出てきた。

あともう少し、自分のペースだけど頑張ってみようと思う。そんな感じで。

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