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そもそも私は最初から競争する気がないのかも

なんとなく、noteを探っていたら、Sakuさんという人の記事に出会った。
全部読んだわけじゃないけど、日本の宗教じみた労働観に反感を抱く私が共感しやすい記事がちらほら見つかり、いくつかスキをしていた私がいた。

人間、働きたくとも働けない人間がいるし、TwitterのTL上でフォロワーさんが仕事についてひぃひぃ言っている呟きを見ると、働くこと自体が怖くなるようにも感じるし、社畜なんてならないに越したことないと思えてしまう。

一ヶ月単位の長期休暇すら取りにくい日本の労働環境。
もう働くこと自体が宗教と化しているというか、それぞれの事情とか関係なしに彼らにとってはニートなどは異教徒みたいなものなのだろう。

私はそんなの嫌だ。過去に作業所などで働いて無理して心が壊れかけたから、自分なりに適した生き方を見つけたいと思っているのに、現実は怠惰に暮らすしか出来ない自分に罪悪感を抱いている日々だ。

だけど、過去を思い出すと胸というか心臓がきゅうと苦しくなるし、労働に対して一種のトラウマを抱えているようにも思えてしまうし、私自身が既に現代日本の競争社会からドロップアウトしているのだろうと実感している。

勝ち組なんて言葉があるけど、私はそもそも競争に参加してないから勝ち負けとか関係ないと思っているし、私自身社会的な名誉には興味がない。
ただ、自分が自分として生きたいだけ。人間性を捨ててまで働きたくない。

隣の芝生は青く見えるという言葉があるけど、日本の労働信仰はやっぱ異常に思えるし、定型発達者も病む現実が社会の異常さを表していると思う。
生きるためにお金は欲しいけど、資本主義の中で偉くなるつもりはない。

自分の器に適した稼ぎでマイペースに生きたい。
金持ちになる必要なんてないんだ。私はそもそも贅沢とかあまりしないし。
"普通"の範疇にある人からすれば私は珍獣だろうし、そもそも家族の中でも私は突然変異個体と思うほどであるぐらいには浮いてる人間である。

たまに希死念慮に襲われることもあるが、基本的には生きたい。
こんな社会の中でも絶望せずにいられることが不思議に思うが、それだけ私は自分が自分として生きられる人生に希望を抱いているのかもしれない。

"普通"じゃなくたっていいじゃない。
むしろ、当たり前に思っていた"普通"こそが異常とも考えられる。
人間、全く同じ存在はいないのだから、"普通"も人によって違うのだろう。

多様性が謳われる時代でありながら、未だに型に嵌めようとする社会。
社会不適合者という言葉も結局は"普通"側が勝手に定めたものだ。
私はもう、誰とも競争なんてしたくもないのだから。

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