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猫への懺悔

⚠️動物が好きな人や繊細な方は読むことを勧めません。
残虐な描写があります。全て事実です。
私のエゴで書きたくて書きます。



6歳の時、親が猫を連れてきた。
縞模様の猫で、子猫ではなかったから誰かにもらってきたのかもしれない。経緯は覚えていない。
昔の田舎のことだから、外飼いが当たり前だった。向かいの家に登って降りられなくなったのを近所の人総出で助けてもらったり、いなくなったと大騒ぎして探したら押入れの中で寝ていただけだったりして、周りの人にも可愛がられていたように思う。その夏、遠く祖母の家に連れて行かれて猫と一緒に預けられ、猫はその間に迷子になり、近くの川に落ちて死んでいるのが見つかった。
苦しそうな顔で死んでいるから見るなと祖母に言われた。苦しかっただろう、可哀想で、夏休みの作文にその猫のことを書いた。

そのあと、親が近所の人から3匹の子猫をもらってきた。兄弟猫で、3匹とも雄だった。
仮に生まれた順にA.B.Cと名付けるなら、AとBはいつも喧嘩をしていた。Cは体が弱くて、ある朝私が学校に行く時、とても具合が悪そうにしていた。夏だったから、暑くて苦しいのか、お風呂場の冷たいタイルの上に横たわって浅く息をしていた。
学校から急いで帰ってくると、その同じ場所で、すこし血を吐いて、Cは呼吸をしていなかった。持ち上げたら、とても軽い。手も足も固い。動かない、死んだ。と思ったらとても恐ろしくなった。親が勤めていた仕事場に電話をしたけど出てくれない。帰ってくるまでそのままで、可哀想なことをしたと沈んでいた。
近くの土手に、上がって7本目の電柱のそばに埋めた。今ではそこがどこだかわからない。その頃からよく空を見上げるようになった。雲の淵からCが、顔と両手だけ出して、こちらを見ている想像をよくしていた。いつも見ていると思った。今ではその想像ができない。

親は猫の死の記憶を隠すように、また子猫をもらってきた。AとBとDの生活になる。Dは、田舎には珍しいアメリカンショートヘアーの子猫で、誰からどうもらってきたのかわからない。「けっとうしょつき」という言葉をその時知った。Dはすぐに行方不明になった。私は近くの文房具屋さんにお願いして、その掲示板に似顔絵を描いた貼り紙などしたけれど、見つからなかった。どこかで事故にあったか、いい猫だから誰かに盗まれたんだろうと親は言う。

しばらくAとBだけの生活が続いた。
相変わらず喧嘩がひどい。普段自由に外へ出入りしているが、たまたま家で鉢合わせると大喧嘩になることがあった。とくにAはやきもち焼きで、私が親に話しかけられているのをやっかむことがあった。親が仕事に行って居ないと、しばしば唸って飛びかかってくることがあった。とても怖かった。小学校の体育の授業中、校庭の隅でこちらを見ていることもあった。目が合うと、ふんといなくなる。放課後に、なんでこんなとこにいるの?というほど遠い場所で会うこともあった。のしのし肩をいからせて歩いて、ボス猫のようだった。そしてそのうちAもBも、数ヶ月に一度しか帰ってこなくなった。帰ってくるたび、耳が片方ちぎれていたり、尻尾が半分ちぎれていたり、腰が血まみれになったりしていて、どこかしらで縄張り争いをしているらしかった。だんだんとBが帰ってくることがなくなって、死んだのかもしれないと親は言った。Aは度々ひょっこり帰ってくるのだった。


親はまた、2匹の猫を連れてきた。
初めてのめすの猫だった。雄の猫とは全く違った。座った時の滑らかな腰の角度や、甘え方や、柔らかな鳴き方や、そして、あっという間にお腹が大きくなることが。
私は避妊という言葉を知らなかった。
めすの猫2匹はそれぞれ5匹ずつの子猫を産んだ。私は出産に一人で立ち会った。そしてあっという間に家は猫屋敷になったのだ。
そのころから、親が帰ってこなくなった。
ネグレクトの開始だった。
沢山の猫と、私の生活が始まった。ネコは自由にそこらへ糞尿し、餌を食べ尽くし、外へ繰り出していく。私は衣服や布団が汚されていくのをどうしたらいいかもわからないまま、途方に暮れた。真冬に電気もガスも止まって石油も無くなった時、畳は腐って穴が開き、そこらじゅうに汚物が塗れた家の中で、ハエと、大量の虫と、埃と異臭にまみれて私はただ呼吸をしていた。
ななと名付けた子猫が、何故だか私によく懐いた。Aに飛びかかられて怖い思いをしていた私は、座れば膝に乗ってくるか弱い子猫の存在が、とても嬉しかった。小さくてオレンジ色で、他のどの猫より目がまんまるで、可愛かった。今考えれば、猫だって生きることに必死だった。人の膝の上が唯一暖かな場所だったのだろう。


近所から苦情が来ていたのだと思う。
突然親が帰ってきて、猫を全部保健所へ連れていくと怒っている。自由に外へ出ている猫を、帰ってくるたびにカゴへ無理やり入れて、自転車で保健所へ往復する母親を、どうすることもできなかった。「ななだけのこすか?」と聞かれたことを覚えている。とても腹がたったことも覚えている。
親は何も語らなかったが、私と猫を置いて家を出ていたことで猫の悪さに迷惑した近所の住民が、アパートの管理人に苦情を言ったにちがいなかった。猫を飼ってはいけないと言われたことに母は憤慨していた。最初はよかったくせにと。けれどそれは最初の1匹だけのことだったのではないのかと子供ながらに感じていた。
この人は勝手に帰ってこなくなり、そして勝手に帰ってきて、勝手に1匹だけ残すかだなんて、どうして勝手なことばかり言えるんだろうと、腹が立った。その勝手のせいで猫はみんな死ぬ。
「みんな死ぬのにななだけ特別扱いするのはおかしいと思う」と私は答えた。


最後に、久しぶりに戻ってきたAが、カゴに入れて連れて行かれた。親は数年経っても、しつこくこの時のことを話す。「Aをカゴから出したとき、勘付いたみたいでものすごく暴れて手を噛まれた。とても痛かった。その時の傷がほら、跡になってまだここにある」と。


私は、ねこがすきだ。
だけど、ねこを好きである権利なんかない。私はたくさんのねこを私のエゴで殺したからだ。それはどんな理由があっても許されないことだと思っている。


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