「インサーン」という人間の「人権」
「人間とは実に…」とはいうけれど
聖典クルアーンは、「インナ=ル=インサーナ ラ・カヌードゥ」(実に人間は、恩知らずである」(「進撃する馬章」6節)と教えるが、そもそもアラビア語の「インサーン(人間)」という言葉はどのような語感をもつのか。「人」を表す漢字は、寄り添い、支え合う二人の人の象形。かなりわかりやすい。アラビア語にいう「インサーン」とは何者なのか。パレスチナで、ウクライナで、あるいは、世界中の紛争地域で、さらには、飢餓や貧困、そして暴力に晒され「人権」を奪われている人々のニュースが後を絶たないこの時代。「人」について考えてみたい。
「人」を表すアラビヤ語をグーグル翻訳で調べれば、意外にもラジュル الرجل が出てくる。しかし、これは男の人という意味。別の訳を探すと、今度は、シャクス الشخص が出てきた。これは、個人としての人という意味。これらは、女性形があるところからも、人間全般を表す言葉でないことは明白だ。イムラアという言葉もある。イムラアの男性形は、マルウ。シャクスの女性形はシャクサ。
そこで、「インサーン」である。男性名詞ではあるけれど、一般的に人や職業を表す言葉のような女性形は存在しない。あるのは複数形のみ。
それでは、このインサーン、いったいどういうニュアンスをもった言葉なのであろうか。ここでは、人を表す2つの言葉、「インス」と「バシャル」との比較を通じて、輪郭を明らかにしたい。
「インス」とは
《このようにわれは、すべての預言者に、人間およびジンの悪魔の中から敵を作ったのである》(家畜章6:112)
《そして、スレイマーンのために彼の軍隊が集められた。彼らはジンと人間と鳥からなっていた。彼らは、部隊に編成された》(蟻章27:17)
この二つの聖句にある「人間およびジン」あるいは「ジンと人間」の部分に使われているのが、「インス」である。種としての人間を表す時に用いられる語であり、この語も男性名詞ではあるが、女性形は存在しない。
《だから言いなさい。「私は慈愛あまねき御方に(話を)慎むことを誓った。だから今日はだれとも話さない」と》(マルヤム章19: 26)。
この聖句において、「だれとも」と訳してある部分の原語が、インスの変化形、インシヤーンだが、これもまた、種としての人間を示しているという。なぜならば、「マルヤムが求められていたのは、人々と話さないということだけで、天使が彼女に話しかけ、アッラーの霊(ルーフ)もまた彼女に話している。彼女が言葉を控えるというときに天使たちとの話は含まれていない。いや、人々に限られていた」ところから読み取れると言う。
: وَمَا خَلَقْتُ الْجِنَّ وَالإِنسَ إِلا لِيَعْبُدُونِ مَا أُرِيدُ مِنْهُم مِّن رِّزْقٍ وَمَا أُرِيدُ أَن يُطْعِمُونِ [ الذاريات: 56-57]
《われは、ジンと人間をわれに仕えさせるため以外には創造しなかった。われは、かれらから何の糧を欲しない、私を食べさせてくれることも要らない》
この聖句においても、「ジンと人間」が併記されていて、インスが種としての人間を示していることが分かるが、ジンと人間の創造の目的が、アッラーに仕えさせるためでしかないというところに、すでに、「インサーン」の語へのつながりを読み取ることができる。
「仕えさせる」と訳した部分は、奴隷になるということでもある。アブドゥッラー(アッラーの奴隷)としての人間である。
「インサーン」とは
アブドゥッラーである以上、そこには義務もあれば、権利もある。アッラーが人間に務めを課すことを、タクリーフ(動詞は、カッラファ)というが、その受動分詞がムカッラフ。人間は、しばしばムカッラフと表わされることがあるが、このタクリーフが、インサーンの意味に決まって伴われているという。
アッラーが人間に対して余りある恩恵を与えたのが、それはまさに「インサーン」としての人間に対するものであった。創造にしても、知識にしても、知力にしても、生活の糧にしても。《かれを創造し、解明を教えた》(ラフマ―ン章3-4)のである。
しかし、その一方で、《人間を一精滴から創造した。すると、かれは公然たる敵対者になる》(蜜蜂章4)
教えの通りにいかないのも人間で、その時も受け皿になるのは、インサーンとしての人間である。《人間を弱く創造した》(婦人章28)、《本当に人間は、不義を為す者、恩知らずな不信心者である》(イブラーヒーム章34)。
人間に対する否定的な形容の種類は多岐に及ぶ。不信心、弱さ、吝嗇、無知、不義、敵対、絶望、議論好き、喪失、不遜。タクリーフを意識的に受け入れるか否かも含めて、インサーンの在り方は、まさに千差万別である。
形容詞は「インサーニー」。理性をもって、人間としての務めを果たしていくそんな人間像に結びつく。
その形容詞を名詞化した「インサーニーヤ」は、「人道主義」のことである。
インサーニーな諸学問(العلوم الإنسانية)と言えば、哲学、文学、歴史学、社会学、芸術が含まれる。
「バシャル」とは
身体、あるいは、姿・形としての人間をあらわすのが「バシャル」の語である。
至高なる御方は天使たちに言う。《われは、泥から人間(バシャル)を創造する者である》(サード章38:71)
《かれ(イブリース)は申し上げた。「わたしにはあなたが泥で形作り、陶土から御創りになった人間(バシャル)にサジダするようなことは、できません」》(アル・ヒジュル15:33)。
形あるいは肉体としての人間に対しては、アッラーも、悪魔も「バシャル」と呼んでいることが分かる。医学は、おもに人間の身体の病と治療にかかわる学問であるゆえに、「ティッブ・バシャリー(الطب البشري)」と称され、獣医学(الطب البيطري)と区別される。
「インサーン」らしさ
クルアーンを通してみるアラビヤ語の世界では、人間、それが「インス」であれ「インサーン」であれ「バシャル」であれ、すべて、それには創り主としてのアッラーの存在が前提になっている。日本語の「人」が、寄り添い支え合う2人を表すのとは、かなり違う。
聖典クルアーンの中で、インサーンは下図のように様々に形容されている。
これらの性質を有していることは、信者であるなしにかかわらない。
多かれ少なかれ、こうした性質を背負いながら、生きているのが「インサーンとしての人間」だということである。クルアーンとハディースの解釈により、5行、すなわち、信仰宣明、礼拝、喜捨、斎戒、巡礼(それに6番目としてジハードが加えられることもある)が、イスラーム教徒の基本的な義務と広く認識されている。
それらは、しばしばイスラーム教徒に固有のこととして認識されがちだが、意味を尋ねれば、決してイスラーム教徒に限った話ではないことが分かる。つまり、国家や権力者の命令を絶対視し、主を見失い、自己利益の最大化のためには手段を選ばず、困窮者に寄り添うことや節制などは行わず、人々の多様性に触れることもなく、自分や自分たちの正義こそが唯一の正義であるするような、思考や振舞いに対する是正を「義務」つまり、「インサーンの務め」として求めているのだ。
人間の諸権利
大切なのは、5つの形ではなく、中身であろう。アッラーと呼ぶかどうかは別として、そうしたありとあらゆる物事の創造主によって与えられている生命は、何人にも奪うことができないことは自明のはずだ。それでもなお、正義や大義の名のもとに無差別の殺人を行われていたとするならば、それは創造主の命令ではない。そうした殺人は、憎悪の連鎖を引き起こす。それもまた創造主の命令とは言えない。
そうであるならば、そこに創造主によって創られた「インサーン」を守ろうなどという考えはいよいよ生じにくい。「敵」の排除と「人権の確保」は両立しえないのだ。
それでもなお、まさに人間らしいこれらの性質をもった人々の多様性を受け入れ、守っていく。「人権」とはアラビア語で「フクーク・アル・インサーン(人間の諸権利)」。イスラーム法学者たちは、西洋の人権思想を横目で見ながら、それは1400年前からイスラームにはあったと主張するが、西洋の人権思想でも、イスラームの人権思想でも、カヴァーすることのできない、沸騰した正義と沸騰した憎悪の衝突の前で「人権」は蹂躙されその主張が抹殺状態だ。2024年7月26日夕刻、パリに降りしきった強雨。それは平和の祭典の報道の陰でむしろ強まる一方の攻撃の標的にされ続けている人々の涙ではなかったか。人権を守るも奪うも人間次第。神頼みはできない。攻撃/作戦の即時中止を求む。戦争反対。アッラーフ・アアラム。
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