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悶々として進もう


わたしは平日働いて、土日祝はありがたいことにおやすを頂いている気楽な稼業リーマンなので、だいたいは金曜日夜はウキウキ。土曜日の夜はこれから~♪てな感じで、日曜日夜(つまり今)はサザエさん症候群を地で行く感じ。

しかし、たま~に体調イマイチでひきこもる週末があるんですね。なので今週末は頭痛に見舞われて、日曜日夕方にようやく回復してきたところ。大事な週末ベッドとお友達なんてもったいない!と思うけれど、まあしかたない。

元気になってきたので、パソコンを開いてみたわけですが、自分の中で特にアップデートされたこともなく。娘との会話の中で感じたことを少し。

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若い時って、自分がやりたいこと、やらなければならないこと、進路について、将来について、まあいろいろ言い方はあるけれど、自分の道について考えろとよく言われますよね。そして実際に考える機会も多くあったと思う。明確に答えが見つかっている人はそれに向かって努力すればよいのだけど、それがなんだかぼんやりしている人はつらくないですか?

わたしはつらかった。つらい、というとちょっと語弊があるんですが、ぼんやりしたままで、自分はこれでいいのか、なんだかずーっと中途半端な感じがしていて、いやだった。これだ!みたいなのがなくて。というのも今振り返ると、やりたいことをやってなかったせいだと思うんだけれど。学生が終わって社会人になってからもしばらくはそんな状態でした。

だから、今は見つからない、何もない、としてもそれは仕方の無いことで、むしろ早くに見つかっている人の方がラッキーだと思う。

あるとき、なんだ、もともとここにあったんじゃん!と気づくこともあれば、これなんではないか!と発見することもある。そこに到るまでの間は悶々としていても、こっちかもしれないと思う方を選んで進んでいくしかない。本領発揮するまでの間、とりあえず基礎力つけていくしかない。

そして、いつも自分探しをしていたころの方がココロになにかひっかかるものを常に抱えていて悶々としていたけれど、これだ!と気づけた時の心持ちはサイコーでしたよと言いたい。

わたしの場合、結局、根性がなかったもので、途中でまたリーマンに戻ったわけなんですが、それというのもやはりやってみたから区切りをつけられた。というのがあります。その道ではなにも成らなかったという結果に終わっているが、後悔はゼロ~!その経験はわたしの人生を豊かに彩りよくしてくれている。


たとえ的外れでも、いーんです。

たとえ後でやっぱ違ったわ~となっても、いーんです。


これだと思ったらどんどんやってみよう。

年齢じゃないけどね。若い時の方が挑戦するにはいろいろと都合がいい。体力とか記憶力とか、柔軟性とか。

だいじょうぶ。

なにかあるあるきっとある。




高尚さは違えども、同じ悩みを大文豪も抱えたことがあるんだ!と驚いて、むかし印象深く読んだ。わたしなんかの雑文よりとても心強いのでご紹介。学習院での講演を書き起こしたもの。

夏目漱石「私の個人主義」より抜粋>

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。

私はちょうど霧きりの中に閉じ込められた孤独こどくの人間のように立ち竦すくんでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射さして来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条ひとすじで好いから先まで明らかに見たいという気がしました。

ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐きりさえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

中略>

それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。

もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。

ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫さけび出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊こわされない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡もたげて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄もやのために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。

必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。

もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰ふみつぶすまで進まなければ駄目ですよ。——もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙だまっていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越こしているとおっしゃれば、それも結構であります。願ねがわくは通り越してありたいと私は祈るのであります。

しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛どんつうではありましたが、年々歳々さいさい感ずる痛いたみには相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛ゆうもうにお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。







でも、みなさま、明日も無理せず。

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