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四角形の部屋

 鉄錆色をしたカーテンは閉じたままだ。
 この部屋は、広すぎる工場地帯を通り過ぎてその工員と家族が住む団地群を抜けた先にある、地下室付きのアパートメントの一室で、僕は一年前から此処に居る。
 此処だけに居る。
 カーテンを開けないのだから光は差さない筈なのに、昼も夜も薄ぼんやりとした明るみがある。物の輪郭が少し見える。
 僕の貌は、鏡でも視えない。
 端が欠けたありふれたコップに水道から水を注ぐ。屹度その水は汚れている。工場地帯から来ている水だから。
 生温い、水の温度。気持ちが悪いな。
 今は午后二時で、僕は何処かに行くべきだった。けれど何処にも行かなかった。一年間ずっとそうして来た。
 アパートメントは二室で構成されている。水道と狭い簡易シャワーのある部屋と寝室だ。どちらにも鉄錆色のカーテンを付けて、暗闇の中、僕はいつであっても独りだった。
 水を飲みながら寝室に移動して、古い病院にあるやうなベッドに座る。シーツは寝たきりで乱れていた。
 枕元に置いたノオトを手に取る。挟んであった安いペンが床に落ちた。拾おうとして屈み、ついコップの水を溢した。膝から足許にかけて生温い水溜りが広がってゆく。
 なんで冬なのに水は冷たくないのかな。
 僕は気にもせず、そんな事を考えていた。季節は変わっていた。
 部屋と僕は変わらない。
 薄明かりで、ベッドも壁も水溜りの床も、少し青ばんで見える。視えない光は青色なんだろうか。
 耳鳴りがする。
 静か過ぎるアパートメントは、僕の耳をおかしくした。虫の羽音、機械の音、薄らとした話声。屹度聞こえない筈のそれらが耳鳴りになって響いてくる。
 いつまで此処にいるんだろう。
 いつから此処は終わりだったんだろう。
 寝室の床の取手を引くと、地下室へと降りる梯子がある。僕は一等その狭い地下室が気に入っていた。
 水を裸足で踏んで、取手のある端へ行き、薄明かりすらない地下室へと降りる。
 二畳程の空間は真暗闇で、耳鳴りすらしなかった。物は何もない。僕は冷たい壁に寄りかかりずり落ちるやうに座った。
 此処はちゃんと冬だな。
 寒くて、相応しいや。
 そうぼんやり考える。僕は此処に居るべきだと思った。
 寝室からつい持ってきたノオトを開く。ノオトには寝る前と起き抜けに記した正体不明の絵や言葉が記されている。けれど地下室ではそれも見えない。
 昨日描いたスケッチは、四角形の連なりだった。僕は街の事、アパートメントの事、そして僕自身の事を考えそれを描いた。
 ペンをノックして、見えない儘に文字を書いた。
 それは僕の遺言かもしれなかった。
 僕は地下室にいる。
 四角形の地下室で、静かに、僕は独りで。
 この冬に僕は埋葬されやうと思うのだ。

おたすけくださひな。