見出し画像

名前と、それから

 僕には名前がない。
 古い何処かの軍のコオトと、白いシャツ、目立たないやうに継ぎ当てしたズボンにこれも古いブーツ。伸びて目に掛かる髪。ノオトとペンと音の外れたギター。
 それが僕の外形を成す物だ。けれどそれは僕の総てでは無い。
 例えば、雨漏りの滴の音階を名前にしても良い。レシ、ド。
 例えば、君が眠る前の最後の言葉を名前にするのも素敵だ。アスハ。
 好きに呼んでくれて構わない。
 とにかく、僕は名前を持たない人間の一人だ。そして何処にも居ない。
 雨樋の下でギターを当て度もなく爪弾く。知らないメロディ。これは、この夜の為に。そんな風に僕は時間を過ごしている。
 ところで、世界の果てがどうなっているか君は知っているかな。
 其処ではとても大きな川が流れていて、毎秒小舟が出てゆく。乗る人は居ない。水音はドウゴウと酷く鳴り響いて、誰だって三分以上は留まれやしないのだ。
 それが世界の果て。
 僕はこれから朝食を食べる。一等気に入っている、山の上の小屋に行こう。名前のない人々が何人か来るだろう。
 点された灯が段々と力を失い、朝がやって来ていた。灯守りがあちらからやってくる。
「やあ、灯終いかい。」
「そうだよ。これには毎朝気が滅入るよ。」
灯守りは本当に肩の下がった様子でそう言った。彼は、夜になるとこの村の其処此処にあるランタンに灯を移して歩き、また朝になるとそれを消して回るのだ。
「朝食を山の上でどうだい。」
僕がそう聞くと、灯守りは少し微笑んで見せた。
「それは良い、屹度温かいスウプが出るね。ああ、それと君の詩をまた聞きたいな。」
詩。僕は詩を作ることだけ覚えている。
 それは秋の日の溜め息のように。
 それは魚の跳ねた光のように。
 それは本から落ちた古い栞のように。
 灯守りとはまたすぐに会う。ギターと詩を聞かせる事になるだろう。
 山を上る道は、近くに住む者が植えた素朴な花で囲まれていて、それが僕のお気に入りだった。
 赤い実が付いた花房を摘んだ。小屋に飾ろう。
 今は冬の初めで、とても美しい季節だ。今日は晴れらしく、空の上の上の方に円を帯びた雲が少し散らばっているだけだった。
 朝焼けじゃあなくて良かった。
 それは余りにそれらしいからね。
「おはよう。早く入って、ギターを弾いて。」
無造作な小屋の扉を開けると、料理の得意なサシャが出迎えてくれた。サシャは昼間は林檎売りをしている。そのせいか、とても愛想が良い。
 僕は少し広いその小屋の隅に座って、またギターを弾く。詩をぼんやり考えているときに、この音色の風合はやたらに合うんだな。
 灯守りもやって来た。人が来る度に、扉がキイギと軋んだ音を立てる。
 ブーツでリズムを取る。朝食はやはり温かい野菜スウプだった。
「ハレルヤ!」
声を合わせてそう言うと、食事と会話が一斉に始まった。僕もギターを抱えた儘、ひと匙スウプを飲んだ。サシャの料理は美味いな。
 突然、風が吹いた。
 青色の風だった。
 それが今の僕の名前だ。君に伝わるだろうか。掴めない青色。僕は今、それを象る名前を名乗るのかも知れないよ。
 ギターを弾こう、そして風についての詩を作ろう。
 灯。
 花。
 小舟。
 そして、風。
 コオトのポケットには、昔誰かが誰かに宛てて書いたとっておきの素敵な手紙がある。僕はいつもそんな風に居たいと思うんだ。
 それでは、また何処かで。
 風が吹く頃に。ギターを弾いてあげるからさ。

おたすけくださひな。