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高原の自由

 illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

広々とした高原は高い山に続いていて、ちょうどその境目当たりは草原と林道を交互に歩くことになる。反対側を振り返れば、どこまでも澄んだ空気の中、こちらも遠くに高い峰が連なっていて、空の青と雲の白とのコントラストが眩しい。
 丸古三千男は眩しそうな目をして、しばらくその山々を見つめていたが、いきなり大きなクシャミをした。
「だあっ」
 クシャミを終えたあと、よくわからない言葉を吐く。そしてもう一度。
「ベェーックション、だああっっと。ふう」
 周りに人がいないせいなのか、ベテラン作家の傲慢さからなのか、とにかくやりたい放題である。
「先生、寒いんですか?」
 秘書の渡師菱代が聞いた。いつも冷静な姿勢は武道で培ったものらしい。
「いやいや、眩しかっただけだ。眩しいとクシャミが出るのだよ」
 丸古はハンカチで鼻を拭いながら平気だというように手を振る。
「ほら、あそこです。あの赤い屋根がうちの保養所です」
 右往左往社の編集者、青谷凪諒子が林の向こう側に見える小さな建物を指差した。いつも通り、ゆったりとした青色のワンピースを着ている。
「なんだ。まだけっこう距離があるじゃないか。ふん。もう歩くだけでクタクタだ。さすがに今日は原稿など書けんな」
 丸古がムッとした口調で言う。
「そう仰らずに先生。もうすぐです。先生なら大丈夫。がんばりましょう」
 担当編集者は作家を鼓舞するのも仕事のうちなのだ。
「待って、青谷凪さん」
 胸の前で両手を握ってファイトのポーズを取ろうとした亮子を菱代が止めた。
「せっかくだから、ここからは車を降りて歩いて行くべきだと仰ったのは、先生ですよね?」
 菱代はそう言って眼鏡の中心を指先で押し上げた。こんな場所でもなぜかいつも通りのスーツ姿だから妙な迫力がある。
「あ、まあ、そうだが」
 丸古の顔にどことなく怯えの表情が浮かぶ。
「私たちは反対しましたよね?」
「いや、反対はしておらんだろう。その、最後まで車のほうがいいんじゃないかと、その、提案だ、提案はしたがね。だが、君たちはもっと強く提案するべきだったんだ。詰めが甘いんだ」
 丸古は胸を張った。
 ヒュン、ビシッ。
「痛っ。痛い、痛いよ」
 丸古が悲鳴を上げた。
「先生が歩きたいと仰ったんですよね?」
 菱代は登山用ストックの柄を右手で握り、反対側の先端で自分の左手をパチパチと何度か叩いてみせる。
「いや、君はそう言うがね」
 顔から表情の消えた菱代がストックを高くかかげた途端、丸古は慌てて両腕で頭を守るように抱えた。
「そう。そうだ。そうです。私が歩こうと言ったんだ」
「でしたら到着したらすぐに原稿、書けますよね?」
「もちろんだとも。そのためにわざわざ右往左往社の保養所を借りるんだからな。もう書いいて書いて書きまくるに決まっているだろう」
「ありがとうございます。短篇を三〇〇本なんて企画、絶対に無理だろうって周りから言われちゃって」青谷凪がぺこりと頭を下げた。
「それは周りの人が正しいのだよ」
 丸古は誰にも聞こえないほどの小声で呟く。
「先生?」
 再び菱代が眼鏡をかけ直した。
「いやあ、いい天気だなあ。それに空気が乾いている」
 菱代の声に気づかないふりをして、丸古はグルリと周囲を見回した。
「湿度も低いですし、都市部に比べれば格段に過ごし易いはずです」
 青谷凪が得意そうに顎をくいと持ち上げた。
「缶詰で執筆していただくには最適な環境です」
 林道に入ると、ミズナラの枝に日差しが遮られて空気そのものが冷を帯びる。下草にはまだ朝露が残っているのか、瑞々しさが際立っていた。この標高だと忙しなく鳴き続ける蝉もほとんどいない。静まりかえっているわけではないが、空気の冷たさと相まって、身も心も洗われるような気持ちになる。
「うむ。これなら書けそうだ」
「ええ。車がないとどこへも逃げられませんしね」
 菱代はそう言ってニヤリと口の端を持ち上げた。
「ちょっと飲み屋へなんてこともできません」
 青谷凪もにっこりと笑う。
「ああ、そうかも」
 今ごろ気づいたのか、丸古は唖然とした顔つきで二人を交互に見た。
 こうやって私をはめるつもりだったのか。丸古は内心で毒づいた。
 高原の保養地だというから、のんびり遊べると思っていたのだ。まさか本当に缶詰にされるとは、思いも寄らなかった。
「ん? なんだ?」
 丸古は林の奥に目をやった。何やら人の声が聞こえてくる。
「ここはもう、うちの敷地ですから誰もいない筈なんですが」
 青谷凪の顔がちょっぴり曇る。
「危ないッ」林の中へ一歩足を進めようとした丸古の襟を、菱代が掴んだ。
 ブンッ。
 襟を引っ張られてその場に止まった丸古の目の前を、何やら小さく黒い塊が凄まじい勢いで通り抜けた。勢い風が丸古の顔に当たる。
「いったいなんだ、今のは?」
 丸古は振り返り、掠れた声で菱代に聞いた。
「私にもわかりません」
 菱代はゆっくりと丸古の襟から手を離す。
「とにかく危ないところでした」
 あと一歩前に進んでいれば、あの黒い塊は確実に丸古の頭を直撃していただろう。
「もしかしたら、あれって」
 青谷凪が手をポンと叩くのとと同時に、いきなり林の中からガサガサと音を立てて男が二人転がり出てきた。二人とも猟銃を持っている。
「うわああっ」
 丸古が大声を出した。
「うわあ」
「おわっ」
 男たちも驚いたのか、大声を上げる。
「あんたら、なんだ? ここで何してんだ?」
「私たちはそこの」
 青谷凪が保養所を指差した。
「ああ、ウオサオの人か。もう泊まりに来たんだな」
「ええ」
「すまねぇな。本当は朝までに終わらせて届けるつもりだったんだ。ちょっと遅れちまうけど、夕食までにはなんとかするからよ」
「はあ」
 状況はよくわからないが、青谷凪がとりあえず頷く。
「おーい、いたぞぉ」
 林の奥から別の声が聞こえてきた。
「なんだよ、あっちか」
「すばしこいヤツだな」
 男たちは、よしと猟銃を構え直して林の中へ入ろうとした。
「ちょっと待って」菱代が二人を呼び止めた。
「はい?」
「さっきの黒い塊、あれは何なんですか?」
 男たちは不思議そうに顔を見合わせた。

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