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私に降る雨

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 階段を上がって地上に出ると小雨がぱらついていた。
「あ、降ってるんだ」
 思わず青谷凪亮子の顔に笑みが浮かぶ。
 地下鉄の出入り口にはスーツ姿の男女が何人もたまって恨めしそうに空を見ていた。たいして激しいわけではないが、それでも傘を差さなければそれなりに濡れてしまいそうなほどには降っている。
 さっきまで晴れていたからね。
 天気予報でも今日は晴れになっていたから誰も傘を持っていないのだろう。
 慌てたように携帯電話で話しているスーツたちを横目に亮子はバッグから小さな折り畳み傘を取り出し、素早く広げるとオフィスビル街に向かって颯爽と歩き始めた。
 足元で雨がピチと跳ねて、パンツの裾に染みをつくるが亮子は気にしないどころか、むしろそれを楽しんでいるようだった。
 どんな時でも亮子は傘を忘れることはないが、けっして用意がいいわけではない。必要があって常に傘を持ち歩いているだけだ。
 本社ビルの入り口で受付に軽く会釈をしてから、閉じた傘の先から水が垂れないようにドアのすぐ内側にある水払いで水滴を落とし、フロアの中へ足を進める。亮子の姿を見た顔なじみの警備員が困惑の笑みを浮かべたままゆっくりと視線を窓の外へ向けた。まだ雨は降っている。
「おや、今日は降っているんですね」
 驚いたような声を出した。
「ええ、今日はちゃんと」
 はっきりとした口調で警備員にそう答えてから亮子はエレベータのボタンを押した。上へ。
 ピン。シャンパングラスで乾杯をしたときのような音が鳴り、ピカピカに磨かれた金属製のドアが滑らかな動きでゆっくりと開いた。
 六階で降りた亮子はオフィスに向かう前にエレベーターホールの窓からそっと外を眺めた。灰色の街を背景に何本もの細く黒い筋が落ちていくのを確認してから頷く。
 雨はちゃんと降っている。
 亮子自身はもうすっかり慣れたとはいえ、晴れているとどうしても周囲から不思議そうな目で見られた。だが、雨の日なら知らない人には気づかれることもない。やはり気持ちが落ち着くのだ。
 ふうっと息を強く吐き、亮子はオフィスのドアを開けた。
「おはようございます」
 明るい声とともに部屋に入った。
 派手に思われがちなエンターテイメント業界だが、雑誌やネットニュースで見聞きするような浮かれた話は亮子の勤める小さなプロダクションにはまるで縁がない。オフィスの入っているビルこそ立派なものだが職場はいたって平凡なもので、知らない者が訪ねてきたらまさか芸能関係の仕事をしているとは思わないだろう。何の飾りもないグレーの事務机には書類が積み上がり、金属製のサイドラックにはこれから処理をしなければならない書類が大量に埋まっていた。
 一番下の引き出しにバッグを入れて椅子に腰を下ろし、パソコンの電源ボタンを押す。ポンと複雑な和音が鳴り、真っ暗だったモニタの縁に薄い光が浮かんだ。
「おはようございます」
 向かいのデスクから低いパーテーション越しに声をかけてきたのは上野山樹乃だ。まだ入社二年目の駆け出しだがなかなかの知恵者で、売り出しを任された新人アーティストは今年に入ってから少しずつテレビやラジオのゲストに呼ばれるようになっている。
「雨なんですか?」
「そうよ」
「本物ですか?」
「うん」
 スチールラックに取り付けた小さな傘入れに折りたたみ傘を投げ込んで亮子は答えた。

 亮子に雨が降るようになってから三年ほどになる。たとえどれほど晴れていても亮子にだけは雨が降ってくるのだ。見上げても空には雲一つなく、いったいどこからこの雨が落ちているのかはまるでわからない。わからないが濡れるから傘を差すよりほかなかった。
 激しい土砂降りもあれば小雨になることもあったが、外に出ればいつも雨は降っていて、けっしてやむことはなかった。 
 気持ちよく晴れた日に、たった一人で傘を差していると、どこか取り残された気がしてならなかった。すぐ目の前には眩しいほど光の満ちた世界が広がっているのに、自分の周りだけは暗く湿って、いつも肌寒かった。
 雨の日はみんなが傘を差す。そのときだけはみんなに追いつけたような気がした。 

「リョーコさんを見ているだけだと本当に雨なのかどうかわからないんですよねー」
 樹乃は亮子をリョーコさんと呼ぶ。
「あのね、私にとっては本当の雨なの」
「ああ、そうかも」
 亮子が眉をひそめて軽く睨む真似をすると、樹乃は両手を合わせて怯えた格好をして見せた。いつものやりとりだ。
「リョーコさんが現役の時は、歌番組ってもっとたくさんあったんですよね」
 樹乃は両手で抱えるようにしてマグカップを持った。服には何か所か穴が空いているが、破れているわけではない。そういうファッションなのだ。
「まあね。私はほとんど出たことはないけれど」
「でも『勝手に雨のマーメード』って大ヒットしたんでしょう?」
「うん。でもあまりテレビには呼ばれなかったの」
「えー、めちゃくちゃいい曲なのにー」
 亮子は黙ったままにっこりと笑った。どんなときでも笑顔になれるのが亮子の特技だ。

 上京して所属したプロダクションから新人歌手として華々しくデビューしたものの、なかなか周囲の期待通りには行かず、亮子はデビュー七周年を待たずに引退を決めたのだった。
 それなりにヒットした曲も一定数のファンもいるのだから、事務所を離れて地方のクラブなどで歌う道もあったが、亮子はすっぱりと歌をやめた。
 もちろん迷いも未練もあった。どこか心の奥底には再びスポットライトを浴びたいという気持ちも残っていた。俳優やタレントに転身する道もあったし、そういう話がないわけでもなかったが、やはり歌手でなければという思いを亮子はどうしても捨てることができなかったのだ。
 同じ時期にデビューした仲間たちが方向を模索しながら今でもがんばっている姿をテレビ画面の中に見かけると、胸の奥がズキンと痛むような感覚を覚えることもあった。
「歌にこだわりすぎたのかな」
 それでも自分の選択は間違っていなかったと思いたかった。
 ヒットに法則はない。世の中の動きとタイミングが合ってまさかの階段を駆け上ることもあるし、才能があっても運に見放されることもある。努力が報われることもあれば、努力とはまるで関係のないところから爆発的に売れることもある。
 たくさんの若者があのステージを目指して散っていく。自分自身も含めてそういう若者たちを亮子はこれまでに数多く見てきた。
「私には無理だったから」
 だからこそ新人をきちんと世に売り出してやりたいと思う。

「お前ならそういう子たちの気持ちがわかるだろう」
 郷里へ帰ろうとしていた亮子を引き止め、雇ってくれるよう知り合いのプロダクションに頼み込んでくれたのは当時のマネージャーだった。
 仕事は楽しかったが息を吐く間もないほど忙しかった。担当するアーティストを、仕事だけでなく私生活まで含めて支えるのだ。朝から夜まで彼らのことを考えていれば、自分について考える時間などなかった。それが良かったのだろう。かつては亮子自身もスポットライトを浴びていたことなどすっかり忘れた。
 十代半ばでデビューしてからずっと特殊な世界にいたのだ。大人として知っているべきことを亮子はほとんど知らなかった。
「まずは社会人としての常識を身につけなさい」
 そう言って社長は亮子に厳しく接した。常識だけでなく実務も学ぶようにと様々な機会を与えてくれた。亮子は勉強に夢中になった。事務的なことがらだけでなく経営や法律などの専門的な知識もどんどん吸収した。
 そうして十年ほどが経つ。その間に亮子は何人もの新人を売り出してきた。まだ大スターとは言えないものの着実にファンを増やし続けている者もいれば、もちろん夢半ばで挫折し、進む道を変えた者もいた。運だけはどうしようもなかった。
 気づけば会社の中でもすっかりベテランクラスのマネージャーになっていたが、それでも打ち合わせの席に顔を出すと客がおやっという顔を見せることがあった。
「あのう、もしかして青谷凪さんですか?」
「ええ」
 まだ覚えてくれている人もいるのね。
「そうですか。いやあ、私、ファンでした」
 ここで亮子はにっこりと笑う。
「ありがとうございます。今は裏方に回っているんです。ぜひ、うちの新人をよろしくお願いします」
 そう言ってほんの少しだけ首を傾げて見せるのだ。かつて身につけた完璧なポーズを。

「リョーコさん」
 ずっとパソコンの画面を見ていた樹乃が不意にイヤホンを外し、亮子を見た。
「何?」
「実は、シノブズで『勝手に雨のマーメード』のカバーをやらないかって話が来ていて」
「そうなんだ」
 シノブズは樹乃が担当しているテクノロックユニットだ。ムード歌謡からハードコアメタル、クラシック音楽まで、どんな曲でも自分たち流にアレンジしてみせる強引な手腕が話題になり、一部の音楽通から注目されつつある。
「A&Rがやらせたいって。局も乗り気なんですけど、やっぱり無理ですよね」
「どうして?」
 亮子はアヒルのような口になってひょいと肩をすくめた。
「詞曲の先生がオーケーならいいんじゃない」
「え? リョーコさんは? いいんですか?」
 樹乃は目を丸くしながらガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
「だって別にあの歌は私のものじゃないから」
 どれほど長く歌い込んで持ち歌と言われるようになっても、歌手に楽曲の権利はない。法律上はあくまでも歌は作曲家と作詞家のものなのだ。
 いつ誰が歌おうと構わない。良いも嫌もないのだから。
「やったー」
 樹乃は嬉しそうに両手を高く上げたあと、デスクの上からピーナツを数粒まとめて摑みそのまま口に入れた。
「アレンジが上がったら聞かせてね」
と、亮子がウインクすると樹乃は口を閉じたまま何度か激しく頷いた。
「リョーコさんって」
 声が掠れている。どうやら慌てててピーナツを飲み込んだらしい。
「今でもカラオケとかでマーメードを歌うんですか?」
 亮子は口をへの字に曲げたまま首を大きく左右に振った。
「私、カラオケには行かないの」
「あ、そう言えばそうですよね。どうしてなんですか? 元歌手なのに」
 歌手の道をすっぱり辞めたのに、かつてのヒット曲を人の前で歌うのは、なんだか今でもスポットライトに未練を残しているように思われそうで嫌だった。だからと言って、放送局のプロデューサーやスポンサーの担当者から急に歌うように言われて固辞すると場の雰囲気を壊してしまう。そうならないためには最初からカラオケに行かなければいい。
 引退を決めた日から亮子は一度も『勝手に雨のマーメード』を歌ったことがなかった。一人で口ずさむこともない。実を言えば、聴き返したこともなかった。引退を決めた日にあの歌は置いてきたのだ。
「元歌手だからよ」
 窓の外の雨を見ながら亮子はポツリとつぶやいた。
 
 翌週、シノブズのアレンジが仕上がってきた。
「それが、めちゃくちゃかっこいいんですよ! はい、そうです。ええ。まだ仮歌ですけど、デモをお送りしますから。ええ、はい。よろしくお願いします」
 自分の席で立ち上がっていた樹乃は、携帯を耳に当てたまま深々とお辞儀をした。ラジオ局か広告代理店に架けていたのだろう。
「ふうっ」
 樹乃はドサッと音を立てて椅子に腰を下ろし、大きく長い溜め息をついた。その溜め息には満足感がたっぷりと含まれているようだった。
「聴いてもらえました?」
 パーテーションの向こうから樹乃は屈託のない笑顔を亮子に向けた。
「ごめん、バタバタしていてまだダウンロードができてないの」
 そう言って亮子は肩をすくめたが、それは嘘だった。メールで送られてきた共有リンクからすでに楽曲は個人の携帯電話へダウンロードしてあった。音楽アプリを立ち上げればいつでも聴くことはできる。だが昨夜も今朝もアプリを立ち上げ曲を再生しようとしたところで亮子は指を止めた。怖かったのだ。
「これは仕事なのよ」
 そう自分に言い聞かせるものの、もしもこの曲を聞けば、いくらアレンジが違うとはいえ、すっかり心の奥底に追いやったはずの遠い過去の未練が再び浮かび上がってくるような気がして、どうしても聴く気になれなかった。
「リョーコさんの感想を聞きたいです」
「うん。あとでね」
 亮子はにっこりと笑った。

 一七階でエレベータを降り、ホール脇にある鉄扉を押し開けると屋上へ続く階段が現れた。亮子は重い足取りでゆっくりと階段を上がり、突き当たりにあるドアにもたれかかると、ポーチからイヤホンを取り出して耳に入れた。イヤホンはすぐに携帯電話と無線で繋がり、接続されたという案内音が亮子の頭の中に響いた。続いて亮子は携帯を取り出して音楽アプリを立ち上げた。あとは再生ボタンを押しさえすれば、いつでもシノブズのアレンジした『勝手に雨のマーメード』が流れる。
 亮子は携帯をポーチにしまうと、折り畳み傘を開いてからドアノブに手をかけ、塔屋からすっと屋上に出た。
 ザーッ。
 激しい雨が降っていた。手にした傘が沈み込みそうなほど重く激しい雨だった。傘の露先からは絶え間なく水滴が流れ落ちていたが、その水は地面に届く直前にどこかへ消えていく。だが、ほんの数センチほどの雨のカーテンの向こうには、眩いほどの黄色い世界が広がっていた。
 亮子は雨の重さに抗うように傘を持ち上げ、遠くを見た。
 屋上から見える街は夕陽で黄色く染まっていた。西の空へ目をやると、大きな太陽がゆらゆらと揺れながら高層ビル群の向こう側へ消えて行こうとしていた。手すり沿いにずらりと並べられたプランターには背の低い木が植えられ、屋上の地面に複雑な影を落としていた。
 ネクタイ姿の若い男性が三人、西側の手すりに手をかけ、夕陽を見ながらタバコを吸っていた。向こう側のベンチには女性が二人座って、何やら話し込んでいるようだった。
 タバコを吸っていた若者の一人が何気なく亮子に目をやり、驚いたようにそのまままっすぐ空を見上げた。雲一つない空から降り注ぐ雨を目で追い、再び亮子に視線を向けた。
 そう。いつも私には雨が降っているの。私だけに降っているの。
 亮子は彼らと反対側の手すりに近づいた。傘の中棒を肩に乗せるようにして、ポーチの中で携帯を探り、再生ボタンを押した。
 四つ打ちのドラムにループサウンドを組み合わせた今時のポリリズムが流れ始めた。しばらく単調なサイン波のベースラインととエッジの立ったリフが繰り返され、おおらかなストリングスの音色が全体を包み込んでいく。完全なテクノトリップだった。原曲の雰囲気はどこにもなかった。やがてデチューンのかかったシンセ・アルペジオとキラキラと輝くベルの音が同時に駆け上がり、そして一瞬のブレイクが訪れた。完全な静寂。
 一、二、三、四、一、二、三、四。
 亮子は思わず頭の中でカウントをとった。
「ああっ」
 いきなり聞き覚えのあるイントロが始まり、亮子の全身がぎゅっと硬くなった。あきらかに、かつて何度も彼女が歌ってきたあの『勝手に雨のマーメード』のイントロだった。イントロはすぐに現れた別のリフと混ざり合い、不思議なコードの中へ埋もれて行ったが、一度気づけば、至る所に原曲のモチーフがちりばめられていることがわかった。
 タタタタン。耳馴染みのあるドラムフィルが響いた。
——本当は忘れたかったのよ——
「本当は忘れたかったのよ」
 突然、口から歌がこぼれ出して、亮子はハッとした。歌い出しも、ブレスのタイミングも、声の変え方も、はっきりと覚えていた。もう十年以上も歌っていないのに、何一つ忘れていない。
——きっと流れてマーメード——
「きっと流れてマーメード」
 止まらなかった。もう二度と歌わないと決めていたのに、亮子は自分の口からこぼれ出す歌声を止めることができなかった。傘を持っていないほうの手が自然に動いて、あのころの振り付けを踊っている。
——ずっとずっと待っているから——
「ずっとずっと待っているから」
 テクノポップにアレンジされた楽曲に乗ったシノブズの仮歌は、かつての亮子の歌い方を完全に再現していた。
「これって、私だ」
 小さな声で口ずさみながら亮子の目から大粒の涙がポロポロと落ちた。雨と違ってその涙は地面に届く前に消えることはなく、灰色のコンクリートに小さな黒い染みを残した。

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