ミッション・インポッシブル
長らく使われていない廃墟ビルは昼間でも夜の世界に取り残されているかのようだった。タクはそっと首を回し、あとを尾けている者がいないかを確認してから裏口の鉄扉を静かに引く。蝶番の付け根から、赤い錆の欠片がぽろと舞い落ちた。僅かに軋みながら扉が開く。
一度、ふっと息を吐いてからタクは部屋に入った。照明はないが窓からぼんやり差し込む光が朽ち果てた室内を朧に包んでいる。空気は湿っぽく黴の匂いが酷い。
タクは政府の某機関に所属するスパイである。新しいミッションがあると、こうやって複雑な方法で指示を受けることになる。面倒だが僅かなミスも死活に関わるスパイたちにとっては必要な手順なのだ。
薄暗い部屋の隅から、地下へ続く階段をゆっくりと降りると真っ暗だった。タクはしばらくじっとその場に立って目を暗闇に慣れさせる。相変わらずじっとりと湿っぽい。黴の匂いに鼻をつくような化学薬品の刺激臭が漂っていて、タクは思わず咽せた。
ピン。
不意に小さな電子音が鳴った。
――エージェント・タクの入室を確認しました――
合成音声がそう告げると、照明設備など見当たらないのに天井が明るく発光し、壁の一部分が回転を始めた。空調のファンが作動を始める。裏返った壁にはスチール製のラックと椅子が二脚取りつけられていた。
タクは椅子を一つ取り外して座り、ラックの認証パネルに右手を載せた。カタンと機械的な音がしてラックの奥からアタッシェケースがせり出してくる。
アタッシェを開けようとしたところで背後から微かな異音が聞こえた。素早く拳銃を手に振り返る。階段の途中に人影が見えた。銃口を向ける。
「まて、俺だ」男の声がした。
――エージェント・シュンの入室を確認しました――
合成音声が識別情報を告げる。
「シュンなのか?」
「そうだよ。いやあ、ひさしぶりだな。元気だったか?」
階段を降りきったシュンは軽く手をあげてパタパタと振った。
「どういうことだ?」
タクは首を傾げた。某機関のスパイたちは単独行動が基本だ。たとえチームを組む場合でも、少なくともミッションはリーダーだけが受け取ることになっている。
「それがさ、今回のミッションはかなり難しいので二人で受けることになったんだ」
「難しい?」
「うん。たぶん絶対に達成不可能だって言われちゃったよ」
「どのミッションだってほとんど不可能だろ」
タクは口の端を歪めた。だからこそ俺たちのようなスパイが存在し、人知れず世界を救っているのだ。
「まあ、そうだけどさ」
シュンは壁から椅子を外し、タクの横に並べ置いた。
「さあ。またまた世界を救おうぜ」
「ああ、わかった」
タクはアタッシェのノッチを外し、蓋を静かに開いた。
中には小型のオープンリールデッキが仕込まれていた。その横には偽の身分証明書と現金、そして腕時計とボールペンがきれいに納められている。
「おっ、新しい秘密道具か?」
シュンが腕時計に手を伸ばした。さっそく腕にはめて竜頭を触ろうとする。
「道具はいいから、まずはミッションを聞こう」
そう言ってタクはデッキの奥にある光彩認識パネルに目を向けた。レーザーが照射されてタクであることが認識されるとデッキのランプが灯った。大きなスイッチをバチンと倒すとリールのテープが回転を始める。アナログなのかデジタルなのかよくわからない仕組みだ。
――おはよう、諸君――
アタッシェの内側に取りつけられているスピーカーからくぐもった声が聞こえ、思わず二人は顔を見合わせる。
「うわ、これって」
「ヤバいぞ」
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