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時代とともに

 菱代ひしよが掃除機のスイッチを切ったのは玄関のチャイムが鳴った気がしたからで、はいはいと誰に向けて言うことなく声を出しながら玄関に向かっているうちに、今度ははっきりとチャイムの音が聞こえたので、菱代の声も、はい今行きますよと大きくなった。
「宅配です」
 ドアを開けると顔なじみの青年が照れくさそうに小さな箱を手渡してきた。緑色のつなぎ服を着た彼はいつも照れくさそうにしている。背後に止めたミニバンのエンジンはかけっぱなしで、ブルブルという低い音が大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。
「ハンコはけっこうですから」
 髪と帽子の境目がじっとりと汗で濡れていた。
「ごくろうさま」
 青年は帽子を被り直して軽く頭を下げ、ミニバンに乗り込んだ。乗ってからも窓越しに一度頭をそっと下げて、そして走り去った。菱代は小さくなったミニバンが角を曲がって視界から消えるまで玄関の外に立っていた。ここは住宅街だが、どの家にも大きな庭木が植えられているので、緑地公園からやってきたらしい蝉の鳴き声がまだ四方から菱代を取り囲んでくる。
 なんだか昨日までの涼しさを忘れたように夏が戻っていて、朝から肌を刺す日差しと雨上がりの熱気で息も苦しいほどの暑さだが、それでも空の高さや風の爽やかさ、それに辺りに漂う花の香りはすっかり秋の気配に変わっている。もうそういう時節なのだ。春に始まるものごとは多いが、同じように秋に始まるものだってそれなりにある。
 ダイニングテーブルに箱を置いてカッターで丁寧に梱包を開ける。送り主は夫の部下だから、いわゆる残暑見舞いなのだろうが、送り状には食品としか書かれていないので、開けてみるまで中身はわからなかった。けれどもこの時季に送ってくるとすれば、だいたいの想像はつく。
 ダンボールを開けると小さな木箱が入っていた。四辺を止めているテープを剥がして蓋を取ると粗めの大鋸屑おがくずに大ぶりの卵が一つ埋められている。
「やっぱりね」
 菱代は得意げに独り言ちてから、両手でそっと卵を抱えて取り出した。きれいな楕円形をした卵は長径が十センチ近くある大きなもので、薄いグレーの殻のところどころにはピンクの斑点がある。
 これまで一度も見たことのない卵だった。いったいどういう謂れの卵なのか菱代にはまるで見当もつかなかった。
 考えていてもしかたがない。菱代は卵を持って寝室へ向かった。
 寝室では夫の伊輪だりんがパジャマ姿のまま、厚く重ねた布団の上で胡坐を組んで座っていた。さすがに今日の暑さは辛いようで、顔から汗が噴き出している。空になったペットボトルが三本、布団の脇に転がっていた。
「ダーくん、大丈夫?」
「いやあキツいよ。もうそろそろ大丈夫だと思っていたのに、まさかこんなに酷い暑さが戻ってくるとは思わなかった」
 そう言う端から汗が垂れ落ちていく。
「でもまあ、始めちゃったから止めるわけにもいかないし」
「ホントごめんね。パジャマ着替える?」
「まだ大丈夫。昼過ぎたら一度着替えるよ」
「わかった。あとでお水も持ってくるね」
「助かるよ」
「それとね」
 菱代は抱えていた卵をすっと差し出した。大きな卵は両手からはみ出ている。
「これ、井塚さんからさっき届いたんだけど、どうする?」
「うわあ、微妙だなあ。一昨日ならよかったのに」
 伊輪は困った顔で天井を見上げた。
「じゃあ、もうこれはやめておく?」
「そんなわけにもいかないだろう。いいよ、温めるよ」 

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