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白いほう

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 白いほうの婆ちゃんが死んで親戚一同が集まったものの、黒いほうの婆ちゃんは自分の部屋でずっと泣いているだけで、みんなからいくら呼ばれても棺の置かれた応接間へ出てこようとはしなかった。
 夜になるにつれて次々に訪れる弔問客の数が増え、誰もが黒いほうの婆ちゃんにもぜひ挨拶をと言うのだけれども、いっこうに部屋から出てこないのだからしかたがない。どうぞよろしくお伝えください、来たことをお知らせくださいとだけ言い残してみんな帰っていく。
 伊輪はどちらかといえば白いほうの婆ちゃんが好きだったし、これだけ大勢の弔問客が来るのだから、やっぱり白いほうの婆ちゃんには友だちが多かったのだなと、母親を手伝って客に出す茶を淹れながら台所の隅で一人思った。
 空気の流れのせいなのか、台所に線香の匂いが溜まりがちなので窓をわずかに開けてあったのだが、そこから外の冷気が流れ込んで伊輪はぶると首筋を震わせた。
 窓のすぐ外では蛙がグワグワと鳴いている。蛙たちは夕方になると一斉に鳴き始めるが、いつしか鳴き止んで、いつも伊輪が寝るころには虫の音だけが耳に入った。
 最後の弔問客は天秤屋の番頭で、この人は何でも量りたがるからきっと棺桶の重さも目分量で量っていたのだろうが、それはともかく抹香を摘まむときの仕草が完璧で、きっと指先でお香の重さを感じ取っていたに違いなかった。
 ふわりと香炉に落ちた抹香はパッと赤い色を見せてすぐ煙に変わる。伊輪はお香が赤く燃えところをもっと見たいのだが、自分が何度もやるわけにはいかないから、その代わりに弔問客のお香をしげしげと眺めることで満足することにしていた。
 もうすっかり疲れてしまってだらしなく座っている親戚たちに向かって丁寧に頭を下げたあと、やっぱり番頭も黒いほうの婆ちゃんにも挨拶したいと言い出した。
「黒は誰にも会わないと申しておりまして」
 伊輪の父親が残念そうな口調で答えると、番頭はしばらく顎に片手を当てて何やら考え込んでいたが、やがて
「そうですか」
とだけ言って、玄関へ向かった。父親についていった伊輪も玄関で番頭に頭を下げた。番頭の黒い革靴には跳ねた泥がついていて、めざとく見つけた伊輪が靴拭きで拭い取ろうとしたのを番頭は手で止めて、泥がついたままの靴をゆっくり履くと、伊輪に向かって真面目な顔を見せた。
「黒いほうのお婆ちゃんによろしくな」
 緊張しているのか口の端が固くなっていて声がもごもごした。番頭がガラリと音を立てて戸を引くと、危険を察したのか、蛙たちがピタリと鳴くのを止めた。
 天秤屋が帰ると家の中の空気が急に柔らかくなった。応接間へ戻ると、叔父さんや伯母さんは酔いが回って早口で何やら話し込んでは笑っているし、従兄弟たちは畳の上にごろんと手足を投げ出して横になっていた。
 伊輪は台所の先まで行って離れへつながる渡り廊下をひょいと覗いた。ちょうど母が黒いほうの婆ちゃんの部屋の前でお盆を持ち上げるところで、婆ちゃんもご飯は食べたのだなと伊輪はホッとした。
「婆ちゃんは?」
 戻ってきた母に尋ねると
「やっと落ち着いたみたいね。お茶が欲しいって」
 そう言って疲れ切った顔で笑った。
「僕が持って行くよ」
 茶を入れた急須と湯呑みを乗せた盆を床に置き、襖を少しだけ開けて声を掛ける。
「婆ちゃん、大丈夫?」
「ダー君?」
「お茶を持ってきたよ」
「ありがとうねえ」
 黒いほうの婆ちゃんは、卓袱台に湯呑みを置いてゆっくりと茶を注いだ。しばらくの間、黙ってじっと茶の入った湯呑みを見つめていたが、やがて両手で湯呑みを持ち、ズズと音を立てて茶を飲み始めた。離れの部屋は田圃の中に突き出るような形になっているので、ぐるりと三方から蛙の鳴き声が聞こえている。
「婆ちゃんたちはずっと一緒だったの?」
「そうだよ。アタシと白はずっとずっと一緒だったんだよ」
 黒いほうの婆ちゃんは遠くを見るような目になった。
「ふーん。いつから?」
「子供のころからだよ。それにこれからだってずっと一緒だよ」
「えー、でもさ」
 だって白いほうの婆ちゃんは死んじゃったんだから、もう一緒じゃないじゃん。そう言おうとして伊輪はぐっと言葉を飲み込んだ。婆ちゃんの目はまだ遠くを見つめているようだった。
「そういえば、お客さんたち、黒婆ちゃんによろしくって言ってたよ」
 話題を変えたかった。
「支配だからね」
「支配?」
「そう。白は従属で、アタシが支配だから」
 婆ちゃんがいったい何を言っているのか伊輪にはよくわからなかった。きょとんとした顔をしているのに気づいたのか、黒いほうの婆ちゃんはクククと鼻の奥で笑って、もう一口お茶を口に含んだ。
「ああ、ダー君のおかげでやっと笑えたねぇ」
 ありがとうねと言って婆ちゃんは伊輪の頭にそっと触れた。
「アタシたちはずっと一緒なんだよ」
 婆ちゃんはもう一度遠くを見る目になった。
 水滴がついてすっかり曇った窓からは、いつもならはっきり見通せる向こう側の駅の明かりも、今日はぼんやりとしか見えなかった。蛙の鳴き声に混ざって、少しずつ甲高い夜虫の音が聞こえ始めていた。

 白いほうの婆ちゃんを荼毘に付したのは翌日の午後早くで、黒いほうの婆ちゃんはやっぱり火葬場へは来なかった。どうして来ないのだろうかと、親戚たちは首を捻っていたが、伊輪にはなんとなくわかるような気がした。
 あれこれと続く慣れない儀式を終えて、みんながようやく帰宅したのは夕方遅くになってからだった。婆ちゃんは伊輪たちとは家族でも親類縁者でもなく、いつからか勝手に家に住みついていただけの関係で、もともとどこの誰かもよくわかっていなかったので、そのあたりの確認やら手続きやらに時間が掛かってしまったのだった。

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