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祖母のお守り

 古いアルバムが必要になって、普段はあまり触れることのない天袋を開いた古庄敏夫は、見覚えのない箱を見つけた。桂でつくられた十五センチ四方ほどの小さな木箱には、全面に花の模様が立体的に彫られ、真鍮製の留め具の周りには螺鈿がはめ込まれている。荒々しくも迷いのない鑿痕は、これをつくった職人の実直さをそのまま表しているようだった。見るからに手の込んだ逸品である。
 俊夫は首を傾げた。生まれてから三十数年ずっとこの家で暮らしているが、こんな箱は一度も見たことがなかった。
 そっと蓋を開けると、柔らかな汐の香りがどこからかふんわりと漂い、俊夫の鼻を刺激した。中には小さくて薄い、コンタクトレンズのような丸いものが何十枚も入っている。晩冬の乾いた空気を通して届いた夕陽を受けて、薄い板はキラキラと光っていた。

「ねえ、婆ちゃん」
 俊夫は居間の卓袱台に新聞を広げている祖母に声をかけた。彼女は真っ赤な縁の大きな虫眼鏡で、新聞の文字を端から丹念に読んでいるところだった。
「これ何か知ってる?」
ほら、と木箱を差し出す。
 祖母は虫眼鏡をゆっくりと新聞の横へ置き、顔を突き出すようにして木箱に目をやった。
「ああ、それ」
 顔の前で片手をひらひらと振る。
「どこにあったの?」
「三畳間の天袋」
 俊夫は廊下を指差した。
「そうなのね。ずいぶん探してたんだけど」
「これって何なの?」
「鱗よ」
 祖母はそう言ってにっこりと笑みを浮かべる。
「鱗って魚の?」
 俊夫は卓袱台に箱を置いて祖母の向かいに腰を下ろした。盆の上に並んでいた湯呑みに急須の茶を注ぎ、そっと口に含んだ。茶はすっかり冷め切っている。それなのに。
「このお茶、すごくいい香りがするよ」
 俊夫は目を丸くした。淹れ立ての茶とまるで変わらない。手の中の湯呑みをしげしげと眺めるものの、土色の無骨なそれはとりたてて特徴があるわけでもない。
「不思議だね。こんなに冷めてるのにさ」
「普通のお茶っ葉なんだけど、淹れ方がね」
 祖母がそこで言葉を止めたので、俊夫は顔を上げて正面を見やった。祖母は笑みを浮かべたままじっと木箱を見つめていたが、おもむろに手を伸ばして静かに手元へ引き寄せた。
「これね、私のお守りだったのよ」
 祖母はそっと木箱の蓋を開け中から鱗を一枚指で摘まみ上げた。窓の光にかざすようにして見つめたあと、遠くを見るような表情になる。
「たいへんなことがたくさんあったからね」
 どこか悲しそうにも見える、その物憂げな顔に深く刻まれている皺は、この家で過ごしてきた長年の苦労を窺わせた。祖母はもう一枚、鱗を取ってじっと見つめる。
「ああこれ。覚えているわ」
 祖母は長い長い溜息をついたあと、黙ったまま鱗を箱の中へ戻し、再び柔らかな笑みを俊夫に向けた。
「なんで鱗がお守りなのさ」
「だってきれいでしょ」
 ちょこんと首を傾げる。
「いや、きれいだけどさ。そんなに大切にするもの?」
「一枚ずつぜんぶ違うのよ。ぜんぶに思い出があるの」
 祖母はそう言って再び箱の中に目をやった。
「そりゃ鱗なんだから、一枚ずつ違っているよ」
「鱗はね、外からおかしなものが入ってこないためにあるの」
 ゆっくりと視線を俊夫に向けた。
「お魚もそうでしょ?」
 口元が悪戯っ子のようになっている。
「外からおかしなものが入ってこない?」
 魚の鱗には他にも重要な役割がありそうだが、少なくとも祖母はそう考えているらしい。
「そうよ。だから私は鱗をお守りにしたの。これはぜんぶ大切な鱗なの」
「ああ、そうかも。なるほどね。そういうことか」
 祖母の想いがようやく俊夫にもわかった。何があってもこの家を悪いものから守ってくれますように。そう願って鱗を集めてきたのだろう。

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