以前に会ったのかも
瀟洒な出窓から差し込む柔らかな日の光は、まもなく冬が終わることを予告するかのように応接室を優しくほんのりと暖めていた。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえている。
ソファに腰を下ろしたまま、井塚は落ち着かない様子で室内を見回した。なにせ大ベテラン作家の自宅を訪問するなど初めての経験なのだ。丹念に磨かれた調度品はおそらくどれも由緒ある骨董品なのだろう。秘書がさりげなくテーブルの上に置いていったコーヒーカップでさえ高級品のような気がして、おいそれと手を出せずにいる。カップに指紋がついたらどうするのだ。
所在なくキョロキョロしていると、不意に奥の戸が開いて一人の男性が入って来た。作家の丸古三千男だ。その後ろから先ほどの秘書が続いて入ってくる。井塚は弾けるように立ち上がった。片手が自然に動いてスーツのボタンを留める。
「申しわけありませんッ」
深々と頭を下げた。そのままじっと動かない。
「なんだ?」
丸古は不可解そうな顔になって秘書を見た。
「このたびは、本当に申しわけございませんでした」
井塚はさらに深く頭を下げた。テーブルに額が当たってゴツンと硬い音を立てる。
「どういうことだ? 仕事の話じゃないのか?」
「あああっ、そうです。すみません。仕事のお願いでございます、はい。たいへん恐縮です」
「さあ、お座りになってください」
秘書がすうっと静かに腕を伸ばしてソファを差した。細い腕に似合わない大きなスマートウオッチをはめている。
言われるまま井塚はソファに座り直した。柔らかすぎず硬すぎない革張りのソファが、井塚の体をしっかりと支える。一瞬で眠りに落ちてしまいそうな心地よさだった。窓の光も鳥のさえずりも、ぼんやりとした夢の世界のように思えてくる。ああ、ずっとここにいたい。
「お待たせしてすみませんね」
いきなり声が聞こえて井塚は我に返った。遠ざかっていた世界がたちまち現実の気配を帯びる。
目の前のベテラン作家はさほど表情を動かさないまま、テーブルのコーヒーカップを手に取ろうとしていた。
「ああっ、ご挨拶もまだあれでした。すみません、申しわけありません」
バタバタと音を立てて再び立ち上がろうとする井塚を丸古は手で止める。
「すみません。まずはご挨拶を」
そう言って井塚はテーブルの端に置いてあった二つ折りの名刺入れを持ち上げ、素早い動作で名刺を一枚抜き出した。
「あれ?」
自分の名刺にちらりと目をやった井塚の表情が固まった。なぜか抜き出した名刺に、黒々とした行書体で丸古三千男と書かれているのだ。井塚は内心で首を傾げた。ついさっき、ぼうっとしていた間に無意識で名刺交換をしたのだろうか。それとも以前どこかでお会いしたことがあるのだろうか。
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